toimichi’s diary

思考の整理、のち、趣味

エゴエゴ丸出しでも望む感情を感じれた

 

昨日、一昨日と感情を揺さぶられる出来事がありまして、エゴエゴ剥き出しで

ズドーンとショックを受けて過ごしておりました。

 

ショックを受けた第一人者でいながらも、時折それを俯瞰する感じで眺めたり、慰めたり。

 

あぁ、この感情は大切な自分を大切にされてないと感じて傷ついている、辛いよ

と言う感情なんだな。

ごめんね、そうだよね、大切にしてほしいよね。

 

そうしてちょっと落ち着いてくると、起きた現状は仕方ない=自分がそう言うものとして認識しているのだから、それはそれでいいじゃないか。と思えてきて

さぁここからどんな感情を味わいたいかな?妥協案じゃなくて本当に感じたいことは何かな?

と考え、あとは望む方を意図だけしておきました。

 

結果的に、今の所望む方向に現実は変わり(ほっ安心という感情を感じれた)

いい感じであります。

 

それでもその意図するまで、意図した後も、なんとなく心はざわざわしていたんです。

 

でも、とにかく、それはそういうものとして、(最近ハマってる?マーラの幻想無視、現実無視の感覚)私は安心してリラックスしてワクワクしてたいんだー

というスタンスで居たら、なんとかなりました。笑

 

やっぱり心揺さぶられる場面にあった時、

見て見ぬ振りをする現実無視、ではなく、

どっぷりハマってしまってもいいし、味わっちゃっていいし、それはそういうものとしてあってもいいけどーーーーーーーーーーーーー、でも素敵な方を選ぶよ。というスタンスで

最終的な軸はずらさずにいるのがいいんだなぁと思いました。

 

 

感情を感じ切ると消えていくのか?

嫌な感情が湧いてきた時に、それを無視して(現実無視して)やり過ごすことができれば、マーラの幻想を抜けられる、と以前の記事で書いたが、

どうしても無視することができないほど大きく心や体を揺さぶられることもある。

 

どうして無視するの!構ってよ!私は辛いんだよ!悲劇の中にいるんだ、シクシク、、、

って感情の部分で大暴れすることもある。そして感情に伴って体感でもドキドキしたり涙が出てくると厄介だ。

 

そんな時は敢えて感情に焦点を当てることを実践してみる。

そうして感情を感じ切るとそれは消える、ということを聞いたことがあったので

今回、少し心がヒヤヒヤする出来事があり、どうしても無視してどうせ大丈夫な自分がいる、でやり過ごすことができなかったので、

じーっと感じ切ってみることにした。

ソファーの上で目を瞑ってどこにそのヒヤヒヤを感じているのか、感じる。

首やお腹のあたりがキュルキュルする。それに気づいてじーっと感じてみる。

そうすると、不思議とヒヤヒヤの振れ幅が少なくなってきた。

速攻で無感情になったわけではないが、なんでそんなヒヤヒヤしてたんだっけ?あれ、別に心配することないよね?と、不思議と不安から解き離れることができた。

いい意味でフラット、ゼロポイント的な感じ。

このフラットな感じに入れると、現実無視の状態にも行きやすい。

それを問題だー!と騒ぎ立てている私はもういない。

私がそれを問題だと騒ぎ立てなければそれは問題ではないのだから。

 

この後は、自分が経験したい感情や状況を意図して想定してみるだけ。

とにかく今はわくわくしたいから、わくわくしよう。

 

人間で〇〇縛り生活やってみた!を思い出す

YouTubeでよく〇〇縛り系の企画を目にする。

最近だと、はじめしゃちょーが横断歩道で24時間生活をしていたものを見た。

その他にもお風呂場24時間生活をしていたり、1万円分買ったものを食べ切る企画だったり、があり、

視聴者である私は、色々な縛りの中を、試行錯誤して切り抜けていく様子を見て楽しむのだ。

 

今朝、起きた時に、ふと、

あぁ今私は「人間になって24時間生活してみた!」の演者をしているんだった。と思った。

 

この体は演者だから、ここでは単に幸せー!を表現してもいいし、問題にぶつかったぞ、さぁどうしよう、無理だ!病む。。と苦しみを表現してもいい。

どちらにせよそれを見ている意識は、視聴して楽しんでいるのだ。

幸せでよかったねー、まぁ大変頑張って!と

ソファの上でブランケットにくるまって、あったかい紅茶とクッキーを楽しみながらその様子を見ているのだ。

そしてその意識自体が本体であるのだから、本質的にずっと安心していられるのではないか。

と思った。

 

このことは、人間の体を通して体験する事柄が不足であるときに思い出すと

特に有効な手段かもしれない。

 

深刻に囚われ過ぎず、まぁこのトラブルもエンタメで楽しんでるんですけどね。

本体の意識に戻ればこんなことはなんてことなかったのですけどね。

となる。

 

丁度、朝から板挟み状態になり困った心境でいたのだが、

でもこれもなんとかなりましたー!ぱちぱち!で終わっちゃうんだよね〜と思っていたら、本当に解決して今はほっこり状態です。

 

 

罪悪感は厄介だが、心地よい方に進むしかないのだ

他人事であれば

罪悪感は持たなくてもいいし、持ってもいい、好きに考えれば?

と思えるのだが、『自分ごと』として考えるとどうにも手放せないでいる。

 

手放さなくてもいい、と思っても

その罪悪感を感じている限り、Aという選択肢は選び難く、Bという選択肢を選んでしまう。

 

と、最近まで悩んでいた。

が、もしかしたら自分の本心ではBという選択肢を選びたく、その建前として罪悪感を引き合いに出しているのではないか、と思えてきた。

 

実は、Aを選択するよりBを選択したい!と自身の周りに直接的に示すことの方に抵抗を感じており、罪悪感があるからBを選ばざるを得ないのだ、とあたかも悲劇のヒロインぶることで

真に抱いていた願望のBという選択肢を選べているのかもしれない、と。

 

また、このように裏の裏を考える、みたいなことをしなくても

結果的に自分が心地よい選択をする、という意味では

罪悪感を抱いた状態でAを選ぶのか

罪悪感を抱かず解放された気持ちでBを選ぶのか、では

Bの方が結果的に心地よい方に進めるのではないか。

 

そう考えた時に、なるほどそうかもな、と思えればBの道を選べば良いし、

いや、そうは思わない、罪悪感を感じようともAを選択したいんだ、と思えれば

Aを選べば正解だ。

 

何かに迷ってしまった時はここくらいまで自分の本心を深掘りして、楽に選べる道に行けばいいかもしれない。

どちらを選んでも一緒かもしれないし、悩んでる間にCという選択肢が出てきてあっという間に解決してしまうかもしれない。

 

人生を振り返ってみると、

短期的にみて失敗だったな、と思うことがあっても長期的にみて失敗だったと思うことがない。結局いつもどの選択肢でも完璧だし、満足できるのかもしれない。

 

大きな失敗だったが、結果的によかったな、ということで思い出すのは大学受験だ。

前期で第一希望の大学を落ちてしまい、絶望の淵に立ったが、なんとか後期で拾ってくれた(が、一度も足を運んだことのない)大学へ仕方なく進んだ。

通学は2時間かかるので、朝も夜も辛く前期で落ちた、というコンプレックスを抱えていたのでなんとなく大学にそこまで好感を持てずにいた。

が、その大学では学生のうちにやりたかったことである、海外留学が実現できたのである。

 

オーストラリアへの交換留学での募集人数はたったの1人であったが、

理系である身でありながら、なぜか採用してもらえ、1年間の留学を実現することができた。

 

他の大学に進んでいた場合にどうなっていたかなどのパラレルを考えても仕方ないので、

ここはただ純粋にこちらの大学に入ったからこそ上手い具合に留学に行くことができたのだな、と思った。

留学への原動力も、受験に落ちたからこそ(ここではto自分や家族への罪悪感があった)、

これだけは実現したい!との思いがより一層強くなり突き動かされたものがあるのかもしれない。

 

長々と振り返ってしまったが、

罪悪感は厄介だが、どちらを選んでも完璧なのだから

とにかくその場で心地よい方に進んで仕舞えばいい、と納得してみた。

 

現実無視で現実が変わった、、?

いやだ、受け入れられない、早く変わってくれ、、、

そういう状況(=現実)を無視して、

でもそこに充足がある。とゴリ押ししてやり過ごしていた時期があった。

そうすると、本当にその奥の充足を実感することができ、結果的に変えたいと思っていた状況も変化していた。

 

特に体調に関わる状況だったので、気を逸らす、ということが非常に難しく感じた。

例えば、恋愛問題ならその瞬間相手のことを考えないようにして、今にのみ集中するんだ

ということができたけれど、

体調は体感として常に付き纏ってくるように感じるので

その状況を無視するということが難しかった。

でもこの体も、これをしんどいと認識しているこの心も、私ではない。

私はその奥の、充足やあったかいものを感じている。

だからこの状況はなんてことないんだ。

 

と、できる限りやり過ごしてみると

即時に切り替わったわけではないが、だんだんと体感が良くなってきた。

 

そうして楽になった瞬間に、普段通り呼吸ができている幸せや美味しいご飯がある幸せを感じ取って、

ああ、充足ってこれのことだったのだな、と浸っていた。

 

風邪をひくと健康であった有り難みがわかる、ということは経験された人もいると思うが

まさにそれの繰り返しだった。

期間が長引くにつれ、いずれ治るっしょ、という楽観視もいよいよできなくなり

現実体験や思考なんてものは幻想に過ぎない、と実感していた頃もあったはずなのに、

やはり体感でのしんどさにはどうも振り回されてしまう。

 

それでも、

この状況はマーラが見せてきている幻想だ、私はブッダだ、マーラのことは悪いけど相手にしない、無視無視。しんどいって状況を見せにきてるなー、とただただ、それを静観する立場にいた。そうすると体感もだんだんと落ち着いていったし、

その他にも、いつの間にか診断に連れて行かれて、栄養素のアドバイスが入ったり、おすすめの乳酸菌を紹介してもらったりと、

勝手に周りが動いて健康状態に貢献してくれる状況が整った。

 

前に思考を止めてポカポカ散歩を楽しんでいた時も、いい状況が勝手に作られたことがあったので、これはひょっとするとそういうことかもしれない。

 

とにかく私は体感の体調不良でかなり苦しんでいたので、

その時の対処法を備忘録的にここに記しておきたい。

システム手帳が好きなわけ

最近めちゃくちゃシステム手帳を使っている。

システム手帳を使っていると言っても、カレンダーを挟んだスケジュール帳としての役割ではなく日記帳、雑貨帳、todoの確認、として使っている。

 

普通の綴じたノートや日記帳ではなく、一枚ずつ剥がせるメモ帳ではなく、システム手帳が良いのだ。このバインダーになっているところがたまらなく良いのだ。

 

通常の綴じノートを使うと、どこかですごく雑に書いてしまったり、自分で決めたルール通りに書けなかったりすると、もうそのノート自体がダメになってしまったように感じて、使いきれずに終わってしまう。

100均で売っているミニノートならギリギリ使い切ることができたが、一冊早く終わらないかな〜と途中から悶々としていたし、

案の定すごく文字が雑なページがあってとても見直す気にもなれない。

もともと私は文字が雑なのに、それがさらに雑になるともう目を背けずにはいられないページとなるのだ。

 

その点、システム手帳であれば、中のリフィルは交換可能なので、気に入らないページや、大した内容でなければ取り出してしまって別保管やポーイをしてしまえるのだ。

 

また、リフィル自体の種類が多く、きちんとしているので、書くときには丁寧に大事に書こう、と言う気持ちが生まれる。

この、『私は今、丁寧に生きている』と心のどこかで感じながら文字を書いていく作業がいいのだ。

 

保管しておきたいアイディアや、メモ、日記はお気に入りのバインダーに残し続け、

これはもういいや、と言うような雑な日記やtodoはポイする。こう言うことができるシステム手帳が最高で、最近はそれに日記ばかりを書いている。

 

このブログのネタも、システム手帳に書いていたものだ。システム手帳が好きな訳について書いていたリフィルがあり、もう見返すことはないからバインダーから取り出してしまおうと思ったのだが、なんとなくブログにも残しておきたくて、投稿するまでは挟んでおこうと判断されたリフィルより投稿している。

 

これで消化済みなので、バインダーから外してクリップで挟んで半年間誰にも目撃されることなく、燃料として消えていくかもしれない。ありがとうリフィルちゃんよ。

彼の作った、いちごのヨーグルト

日曜朝の7時頃、彼の携帯のアラームが鳴った。

ピピピピ‥!という頭をつんざくような慌ててために行くことを余儀なくされる音ではなく、どこかお店のエントランスで鳴っていてもおかしくない、爽やかな音楽だ。

それでも、その音を聴き続けながら再度眠りに落ちることができるような体質でもないので、仕方なく止めに起きた。

 

アラームに起こされずに9時くらいまで寝ていたかったというのが本音だが、うだうだして、二度寝はしなかった。

というのも、起きてみると案外起きていられるもので、若干の体のだるさを抱えながらもベッドサイドで紅茶を飲みながらのんびり彼とおしゃべりをしていた。

そのうち彼がお腹が空いてきたと言うので、冷蔵庫にヨーグルトがあるよと伝えた。

お腹が空いたのなら、さっと食べれるヨーグルトがあるからつまんでおいでよ。の意味で伝えたつもりで、私はまた布団に潜って休んでいた。

 

暫くすると彼が二つの小さなカップを持って現れた。小さくカットされたいちごがトッピングされた、ドライフルーツ入りのヨーグルトだ。

いちごの甘酸っぱさとヨーグルトのクリーミーな舌触りがなんとも美しく交わっていて、最近食べたデザートの中でダントツに美味しい、と感じた。

中にフルーツがたっぷりと入っていることが美味しさの秘訣だったのかもしれないが、私は何より、彼が作って持ってきてくれたヨーグルトだからこそ美味しく感じられ、丁寧に味わうことができたのだ。

自分で同じように作ったとしても、舌の上の味わいこそ同じかもしれないが、満足感は桁違いだろう。

お金では買えないものがある、とはこう言うことなんだろうな、と実感した。

それはやはり愛を通して感じる満足感、または愛そのものなのだなと感じた。

 

そしてそれは決して一人だと味わえないわけではないと思う。私がそう思ったのは、最近自分を疎かにしていたからだ。一人でも丁寧に作り、いちご農家さんや、いちごに感謝し、綺麗に盛り付けて、ゆっくり味わって食べる、そうやって自分自身を丁寧に行えばきっとあの満足感を味わうことができるだろう。

最近の私は、細かく切りもず、ヨーグルトの上にぽんっとイチゴを乗せてそのままサッと食べ終えてしまう。食べ終えて一言美味しかった〜。と感じて終わり。のように雑に過ごしてしまっていたからだ。

 

もっとお金を手にして、もっと安心と満足感で満たさなければ、、とどこか物質的価値に縛られていた自分にハッとし、各プロセスを疎かにし、それ自体をただの通過点とみなしておざなりにしていた自分を反省した。

 

と同時に、愛する人が愛の気持ちを持って作ってくれたヨーグルト、その行為にも気持ちにも物体にも、味わっているその瞬間にも感謝して、本当の満足感を味わうと言うことを経験させてくれた彼には本当に感謝している。