toimichi’s diary

思考の整理、のち、趣味

エゴの思考が停止している時、本当の自分の力が引き出される

エゴの思考が停止している時、本当の自分の力が引き出される、のかな、と体感。

 

思い返せば自分が集中して何かをしていたなーというとき、

その時の記憶みたいなものがごっそり抜けている。

 

何かに集中していた、というのはよく思い返されるのが勉強。

 

小学生の頃も、中学生の頃も、高校生の頃も、、

中学受験対策で小学校の頃から勉強していたほうだとは思う。自分自身も勉強は好きだったので、苦はなく取り組んでいたが、集中して(=忘我状態で)成し遂げていたのは年が若い頃の方が多かった気がする。

 

問題集に取り組んでいるとき、テスト勉強中、テストの最中など、

なぜ私はこの問題が解けたんだろう、ふともう一度考えてみようとすると、さっきは解けたのにわからない、というようなこともあった。

 

また、テスト勉強では、めちゃくちゃ歌いながらテスト勉強をしていたことがあるのだが、その時の方がなぜか賢くなっているのだ(覚えている、問題が解けるようになっている)

ただそのテスト勉強している場所は、放課後の教室だったので、周りの子たちは迷惑だっただろう。。クレイジーと呼ばれていたが、今思い返せば確かにクレイジーだ。

勉強しながらよくわからない歌を歌っている私、こわ、、w

 

先ほどは勉強ではなくて仕事でちょっとした確認プログラムを書いていたのだが、エゴとしてはテーブル構造を考えてプログラムを想像するのが苦手で、どうにも欲しい結果が出なかった。もういいや、と思い、ふとイヤホンでまぁまぁな音量で同じ歌をリピート再生していたところ、ふと閃いて、欲しかった答えの出るプログラムがかけた。

 

音楽は日本語だったし、ポップな歌で、以前の私なら

「集中する時に音楽を聴くなんてありえない、それも歌詞の意味がすぐわかる邦楽なんてもっての外だ」などと考えていたが、

最近エゴとは別の領域、もっと大きな自分自身を信頼してみよう、感じてみようとしていたので、そうなるようにエゴの思考をあえて止めるようなことをしていたらうまくいった。

 

エゴも自分自身のうちの一つで、自分のキャラクターとして動いてくれる存在だが、大きな仕事は別の領域の自分に任せて共同で時間を過ごしたらうまくいった、と言った感じだろうか。

 

とにかく、今回はあのなぜか集中してうまくいったけど本当になんでうまくいったのかもわからないし、じぶんでやろうとするとうまくできない、現象が

実は何度も経験していて、これからもそれを活用した方がいいんじゃないか、ということに改めて気づいたのでここに残しておくことにした。

 

残しておくぐらいならもう少し綺麗な文体に直したいところだが、一旦これでいいのだ。