このままだと社会一般的に普通だとされていることができなくて、自分はみんなから(特に身近な人から)怠惰だと思われてそのうち愛想を尽かされるかもしれない。そんなのは怖い、そんな自分じゃ嫌だ、社会から愛されない自分なんて認められない。
と暗い気持ちに包まれていたが、例えそんな自分を愛せない自分でもOKと思うことにした。
それでもOKと思うと、不思議とそれ以上こんな自分なんて、、と言うくらい気持ちループが終わった。
もうそれでもOKを出されてしまったのだからエゴの騒ぎようがない感じ。
社会から認められないとか、
一般的に普通だとされていることとか、そう言った概念的な思いも全てエゴが考えだしたことで、本当にそうかどうかはわからない。
もし今、縄文時代だったら、江戸時代だったら、50年後、100年賀の未来だったら、火星や冥王星の住人だったら、
一般的にこうであることのエゴが思い描く概念も違ったものかもしれない。
だからどんなに怖くてもそれは勝手にエゴが作り出した恐怖で、それに取り合わなくてもいいか、と思うようにもしていた。
そう思うようにしても、囚われてしまうときは囚われてしまうようで。
特に、今に集中していなくて、いつの間にかポーッと思考してしまっているとそう言った不安に飲み込まれてしまうようだ。
(逆に微塵切りに全集中している時間は幸せを感じれる)
そう言うときは、そう言う自分でもOKを出す。
怖い、そう言う自分が受け入れられない、愛せない、社会から愛されない自分なんて認められない自分でもいっか、と肯定する。
そうすると段々に本当に、じゃあそれでいっか。と思えてきた。
エゴが心配していたことが現実化しても別にいっか。
そう思っていると不思議とさっきまでの焦燥感というかくらい何かに飲み込まれていく気持ちが消えてなくなった。
だんだんと褪せていくというよりかは、幻想だったんだと気づいて一瞬にして無くなる感じ。
どんな自分でもOK。
肯定してあげる。
肯定できない自分でもOKと肯定する。