toimichi’s diary

思考の整理、のち、趣味

深夜に起きる。そしてアイス。

最近の悪習慣である。深夜に何故か起きてしまい、眠れない。冷房を再びつけるが、眠れない。

仕方ないので箱買いしていたピノを食べる。冷凍庫を閉める。冷凍庫を開ける。ピノを食べる。冷凍庫を開ける。。。冷凍庫からピノがなくなるとようやくその行為は止まる。

 

お腹もいっぱいになったことだが、まだまだ眠れないので、アニメを視聴する。

 

昨日は手塚治虫公式チャンネルにてアップロードされていた1時間半くらいのアニメを見た。おそらく後半で眠りについてしまったので、朝起きて全く覚えのないシーンまで進んでいるのを確認する。

 

 

そんな堕落した夜中の悪習慣をここ数日繰り返している。体への悪影響は計り知れないので体重計には乗っていない。

 

一体どうして深夜に起きてしまうのであろうか。暑さで起きてしまったのだろうと思い、扇風機をつけっぱなしで寝たがやはりダメであった。

お腹がいっぱい出ないといけないのかと思い晩御飯をたくさん食べたがやはりダメであった。

こう言った原因は精神的ストレスが考えられるが、そちらについて深く分解する方がストレスがかかりそうなので一旦はまだ蓋をしておくことにした。

本日はお酒を飲んだのでゆっくり眠れるかもしれない。あるいはぐるぐると思考の渦に巻かれて眠れないかもしれない。we'll  see.

全てどうでもいいし勝手にし

生理前の気分の上がり下がりがしんどい。

いや、上りもしないし、何となく下がっているように感じるのだ。どちらかというと虚無的感情、そして攻撃的感情を抱きやすいのかもしれない。

幸い誰とも話す必要がなかったので、誰かに対して特定の憎悪の感情を抱く必要はなかった。

 

自分で何かを考える時間以外は本を読んで本の世界に入り浸ったり、アニメを見て主人公を応援していたので、いつもよりマシだったかもしれない。特に本日読んだ吉本ばななさんのハチ公の最後の恋人、という物語は主人公のある意味乱れた生活に対比してハチと主人公の恋愛がとても純粋で綺麗に描かれていて、読んでいて気持ちが良かった。

 

ところで、嫌なのがお腹がいっぱいなのに溢れくる食欲。これを食べたら明日また太るんだろうなぁ、お腹が気持ち悪くて寝にくいんだろうなぁと思うのに口に運んでしまう自分の意思の弱さに辟易する。

 

そんな中、コロナやワクチン問題、オリンピックの問題、地球温暖化や男女平等問題などこの世に溢れている様々な○○問題シリーズに関する動画を観ると、途端にどうでも良く感じてしまった。どうせいつか死ぬのだし、もうこんな問題の裏の問題はこうで誰の利権で、、と考えることに一体何の意味があるのか。私なんかが真実を知ったところで果たしてどれだけの実益があるのか。と、自暴自棄な気持ちになってしまった。

 

生理を経験しない男性にはわからない心境かもしれない。もしあなたが荒ぶっている女性を見たならば、ホルモンの乱れで一時的に性格を改変された怪物なのだと思ってあげてほしい。

爪切りが欲しい

村上春樹世界の終りとハードボイルド・ワンダーランドの後半に、主人公がディナーの際に女の子にさらっとプレゼントを渡すシーンがある。

そのプレゼントが爪切りなのである。確か二千八百円だか何だかする一生ものの爪切りである。

ディナーの前に時間があったのでふらっと入った金物屋で買ったものである。

 

ふらっと入った金物屋でたまたま見つけた、一見爪切りに見えないような代物であるらしい。

 

ネットで探すとそれらしいものが出てきた。想像とは違ったが、確かにこれは一見爪切りには見えない代物だ。そしてスタイリッシュで美しい。

 

 

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爪切り

https://www.amazon.co.jp/-/en/42409-000/dp/B0000TCI56/ref=cm_cr_srp_d_product_top?ie=UTF8

 

このようなものをディナーで、ふと思い出したようにプレゼントされ、使い方を教えられる。そんな1シーンがとても暖かくて切ないのである。その後主人公と彼女がもう二度とディナーをしないのではないか、と半ばわかっている読者にとっては切ないのである。

 

物語にとって考察が必要な重大なワンシーンではないかもしれないが、なぜかこのシーンがとても印象的である。

 

また、このような素敵な何気ないプレゼントを受け取るようなことがあれば、

嬉しいなと、女心に思うのである。

 

 

 

 

人を試すような悪い癖

癖。というと少々語弊があるかもしれない。

人を試すような悪い傾向がある。悪いかどうかもわからない。善と悪で考えれば悪の要素が強いかもしれない。

 

昔から人を心から信用することができなくて、信じていいかどうか確かめるために、ひたすらに突き放してしまうことがある。それは一種の自己防衛的行動でもある。

要は傷つきたくないのである。

突き放す、といっても相手を傷つけるようなことまではしていない。と思う。

自分から積極的に連絡を取らなかったり、適度なところで連絡を断ったり。また切り込んだ話題を出して(政治的や国際的な話題など)どこまで強く話しても聞いてもらえるかで距離感を図ったり。これに関して言えば、同調してもらえるかどうか、より議論をしてもらえるか、に重きを置いている。そんな少し扱いにくいような対応をしても、友達でいてくれるような優しい人に初めて心を許せる。このように考えるようになってしまったわけは中学校の頃に起こった出来事が原因であるが、今は書かない。

 

大袈裟に言えばこのようなことをして、人との距離感を測っておくのである。

何かことが起こって傷つく前に。

例えば、距離感を図って、向こうは知り合いと呼べる程度の付き合いだと考えているな、という認識をする。そう認識をしておけば、自分に対する接し方や対応に期待しなくていいし、予想通りの対応じゃないか、と納得することができる。

逆に、距離感を図っていないと過剰に期待して傷つくことがある。

 

社会人になってから知り合う人は、そもそも距離感を詰めた関係性になることがないので、突き放して試すようなことは少ないかもしれない。友達、というより同僚。たまたま同じ時期に同じ会社に所属していただけ。と割り切ることができる。

それでもやはり仲良くなる人は出てくるわけで、そうすると距離感を図って線引きをしたくなるのである。どこまで安心して自分を曝け出していいのか、どこまでこの人を信じていいのか、を考えてしまう。

 

そうしてそんなことをしても変わらない対応をしてくれる人には心底感謝の気持ちでいっぱいだ。もちろんその後の人間関係を悪化させるようなあからさまな対応をしている訳ではないので、ただ気づいていない、という可能性もあるが、それはそれでいいのだ。

結局は私の心の持ちようなのだから。

 

靴を踏まれた

人混みを歩いていたら靴を踏まれることもある。

 

意図的に踏んでいるわけではないのかもしれない。第一、乗車時間の数分のうちに足を踏まれるほどの恨みを買った覚えもない。

しかし、私のサンダルの後部を踏みつけた男性のローファーシューズの圧力と、私の足が前に進もうとする推進力が合わさって、サンダルの紐が引きちぎれてしまった。

 

ごめん、と一言言い放って人混みに消えたおじさん。まさか人のサンダルが引きちぎれたとは思わなかったのかもしれない。

それがスペインでお母様に買ってもらった思い出の品だとは知らなかっただろう。

だから、ごめん、と一言言い放って雲隠れしてしまったのだ。

 

最近はすみませんやごめんなさいを言える日本人が少なくなってきたように感じるので、最低限の挨拶ができていたことは感心する。しかし、ことはごめんですまないのである。

 

私の物的思い出が一つ壊されてしまった。弁償はできない。もう一度スペインへ私とお母様を連れて行ってくれない限り、あのサンダルは戻ってこない。とても悲しくなった。

 

私は人からの贈り物が大好きで、自分で買ったものより誰かに貰ったものをよく身につける。そこには必ずその人との思い出があるからである。

無くしたくはないし大切にしたいけれど、使わないでしまっておく方がかえって勿体無く感じて、一緒に出かけるのである。

 

そうすると、ときおりこういったトラブルもあるかもしれない。靴なんて、いつかは汚れて履かなくなるかもしれない。そのいつかがきた、それだけのことと思おう。

 

 

コーヒーをめぐる冒険 - A Coffee in Berlin -

コーヒーをめぐる冒険というドイツ映画を見た。

モノクロの映画であったので、カラーに慣れている身としては見にくいのかな、と思ったがそんなことはない。むしろ綺麗にさえ見える。

 

主人公は無気力な青年、というかモラトリアムから抜け出せていない青年というか、(大学を中退してフラフラしている)そんな男の子である。

だらか余計に白黒で表されている世界観がフィットしたかもしれない。

この世に色がついて見えない、自分がこの世界に合っていないんじゃないか。。そんな風に感じでいるであろう主人公目線に立つことができる。

 

 

大雑把なあらすじとしては

(極力ネタバレをしないつもりであるが、一部内容含む)

大学を中退してフラフラしている主人公ニコ。

コーヒーを買おうとするといつも失敗。(このコーヒー登場の有無が主人公ニコの心境を表しているのかもしれない)

恋人、友人、学生時代の知り合い、アパートの上の階の人、父親、色々な人と関わるけれど、何となくうまくいかない。行動に積極的になれない。小さなアクシデントに巻き込まれる。

不運、というほどでもないが、主人公の無気力さを結果的に際立たせてしまう出来事。

そしてそれらの出来事に出会っても悲劇のヒロインの如く悲観的になることもなく、またこれか。と、淡々にその出来事をやり過ごしてしまう。この世界には自分は適合していない。と諦め、悩んでいるのが伝わる。

そんな時、バーで出会った戦争時代を生き抜いた老人の話を聞いてようやく目が覚める、、

 

といった具合。んん、ネタバレをしない程度のあらすじを書くのはなかなか難しい。

 

 

周りの人との温度差についていけないというか、他の人みたいに真っ直ぐに進むことができない。時折そういう感情を抱く。ただ、そのような気持ちが向上心に繋がるという訳でもなく、ただ淡々と日常を過ごすのであるが。。

何となく、人間の、特に若い人にありがちな、そういった感情を切り取って表現した作品だったように感じた。作品に見入る、というよりどこか自分を見ているような気持ちで作品に浸かっていた。

 

モノクロ、美しい顔の主人公、落ち着いたサウンドトラック(A Coffee in Belrin)。

この映画を見たからといって、何かとてもエナジェティックになる訳でもないし、希望に満ち足りる訳でもないのだが、自分の中でお気に入り映画の上位に食い込むかもしれない。

 

ドイツについて、戦争について、もう一度勉強し直して再度観るとより理解が深まる部分もあるだろう。

 

 

うまく文章で表現できないのがもどかしい。

映画や本のレビューを行なっている人はいかにして行なっているのだろう。

釣り

にじます釣り、にじますの掴み取り、BBQへドライブでゆく。

夏の一大イベント的遊びを行った。

こちらの釣り場にて。

https://kurhaus-yamagoya.com/fishing/

 

にじます釣りとにじますの掴み取りは、もともと捕まえてある魚をおじちゃんからもらって川に放流して行う。

釣りは3人で15匹放して6,7匹ほど釣れた。釣って写真を撮っている間に逃げられたりしたので焼いて食べたのは5匹だ。塩で味付けして自分たちで捌いたますはとても美味しかった。

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BBQのセットが3人で食べ切れないくらいにあったので、にじますの掴み取りは掴み取り体験だけを楽しませてもらった。

実際は掴み取りしたニジマスも捌いて食べることができる。

 

目の後方からそっと近寄りお腹からさっと掴むと掴み取ることができたが、なんと無く後半はニジマスも敵の動きを覚えたようで手を広げた影が近づいてくると、さっと逃げてしまうことが多くなった。

実際には掴み取りのエリアには網が張られているのですぐに逃げられて楽しめないという心配はない。

 

ドライブも山道と高速の一部を運転させてもらったので、楽しむことができた。

連休のせいか、高速渋滞が起きていたが、

友人にドライブDJをしてもらい、楽し懐かしい雰囲気で過ごすことができた。

 

 

ドライブや、野外でのアクティビティだと、当然アウトドアな空間なので、

病気について考えたり気を使ったりするストレスからも解放される。

 

本当に良いアクティビティ日和だった。