私にはおおまかに言うと2つ欲求があって、
1つは安心したいと言う欲求で
2つは笑っていたいという(楽しんでいたいという)欲求
ただこれも本当にそうなのかわからない。実は一つも欲求なんてなくて、(なぜなら全て満たされているから)欲求だと分析し思い込んでいるだけのような気もするが。
エゴ目線で感じる分にはあるのだと思う。
1つ目の安心したいという欲求は、結婚したいと言う願望から分析された。
結婚して世間(親、友達、知り合い)に認められたい。社会的に安心したい。という願望があるからだ。特定の相手とどうにかなりたいと言うよりかは、独身から既婚と言うステータスになることで安心したいと言う欲求がある。
ように感じられるが、もう一人の自分がいて、別にどっちでも良いじゃねーか、と言っているようで、『自分は安心したいと言う欲求があります、それは結婚したいという願望から導かれました。』と言うのが何かの定型分というか建前というか、言わされているような気もする。
じゃあ今安心しているのか、していないのかと言われれば割と常に心は平穏で、上記の欲求がチラチラ見えるので80%ぐらいの安心感という感じか。
それよりも私は、2つ目の笑っていたい、というのが本願にある気がする。笑っていられるなら結婚したいし、しなくても良い、それくらい笑っていたいのだ。普段笑わないわけではないが、日常生活を送っていて、昔ほどさほど笑わない。箸が転げただけで笑うお年頃?の中学生、高校生の時のような、常に笑っていられる状態になりたいと強く思った。
ふと思った。
全ての願望は安心したいに通じるのだろうな、と勝手に思い込んできたが、安心もを含んだJoyな感情、感覚に浸っていたいという思いがある。あるなぁと思っていたが、忘れていた。
そしてふと笑っていた時のことを思い出した。
中学生の頃だ、大好きだった男の子がいた。(当時私には恋愛感情はなかったが、人として存在として大好きだった。)その子と連むと常に笑っていられたし、楽しかった。
(周りからはうるさいと言われていた男の子だった。)男女の友情は絶対に成立する、それがこれだ!!と当時は思っていた。授業時間も休み時間もなんかバカ笑いできる、波長が合う感じがしたのだ。
中学生だから難しいことも考えないでいいし、その瞬間その瞬間に生きていたからこその心からの笑いだったのかも知れない。今、この瞬間を生きる、を大切にしてきたつもりだったが、あの時ほどそうできていないのかも知れない。あの時は、「今、この瞬間を生きてるぞー」という思いなしに、今、その瞬間を生きていた。中高一貫で余計なストレスがなかったのも大きいのかも知れない。人生の分岐点だと思っていた大学受験勉強も当分はこないし、勉強は好きだったので、特に苦痛にも感じていなかった。
それが今や、人生には何か目的やゴールをもって計画的に生きなければいけない、明日の仕事はー、結婚しないと世間体がー、子供は30歳までに産みたいからー、などなど、ここ5年くらいついつい考えてきた思考が習慣的に出てくることによって、何かが阻害されていたのかも知れない。
もっともっとバカになったほうがいいのかも知れない。
つい一年前までは思考しない人間はばかだ、なぜ自分で考えないのだ、と思っていたが、思考停止ぐらいがいいのかも知れないと思うようになった。武田先生の本にもあった通り、自分の頭で考えることは間違っているは、その通りだと感じるようになった。
今までの私の発言と関連させるわけではないが、ここら辺の思考、感情については(結局思考しているんだよなーw)以下の本を読んでおきたいと思う。
・老子
・私は何も信じない――クリシュナムルティ対談集
楽しいから自然にそうしちゃう!から生まれる行動、思考は消す必要はないのかな。