toimichi’s diary

思考の整理、のち、趣味

読書はどこまですれば読書をしたと言えるか

読書ってどこまですればちゃんとした読書になるのだろう。

本を読むのは好きで、小説や勉強系(最近は国際政治、コロワク、等)を貪り読む。

 

勉強系はなるほど、そういうことか、と知見広げ、一旦インプットして終わるのだが

小説系はどうであろうか。

 

大抵読んでいる時は夢中になっているのでその作品の主人公になって、もしくは主人公の背後霊的な立ち位置から作品の世界に入り込む。

入り込んだら後はほんの流れのままに。である。現実では活字を目で追い、ページを巡り、時にチョコレートを手にしたりお水を飲んだらしているかもしれない。

走行しているうちに作品が終わり物語の世界から追い出されてしまう。

追い出されて後は作品について振り返ったり、後日談というかその後の話を想像してみたりするが、所謂読書感想文や考察文的なものが書けない。

宿題だから書きなさいと言われれば無理矢理書くことができるかもしれないが、読み終わった後にそこまで深く考えることをしないのである。

ネットで作品を検索すると考察や深い感想を記入されているブログなんかをよく見かけるので、読み込んでるな、賢いな、と感心する。

そんな人に比べてただ単純に真っ正面から読んで通過しているだけの自分は本当に本を読むのが好きといっていいのか、不安になってくる。

 

例えば芥川龍之介の河童を読んだが、

河童のキャラクターの名前がカッパに近しい「○ッ○」という名称が多いとかなんとなく日本人が共通して認識していそうなqua quo くぁ くぉ みたいな発音が河童の言語として使われていて面白いだの、

日本人↔︎外国人の対比を比喩しているのかな、程度の小並感しかぱぱっと抱けなかったのである。(最も読書感想文であればもう少しまともに考察するはずだが)

果たして世の中の人は本に対してどれくらいの感想を抱き、考察を行うのか、気になるところである。