toimichi’s diary

思考の整理、のち、趣味

FRIENDSに憧れるわけ

FRIENDSやHow I Met Your Motherなどの海外ドラマにハマっていた時期がある。

時期がある、というか今も見れたら何度でも見たいのだが、AmazonPrimeVideoでは見れないし、Netflixは解約しちゃったしで最近は見ていない。

 

だが、FRIENDSのあの仲良しグループがカフェで集まって何やら身の上話で盛り上がっているところや、同じくHow I Met Your Motherの仲良しグループがバーに集まって盛り上がっているところを思い出すと心あったまるし、羨ましくなる。

 

ああ、自分もあの中の一員だったらな、とか、あんな感じのグループや溜まり場があったらな、と思う。

友達がいないわけではなく、中学からの友人もいるし、社会人になってからの友人もいるけれど、常に顔を合わせているわけじゃないし、全部が全部お互いのことを共有しているわけでもない。

 

先にあげた海外ドラマの中でもみんな一から百まで情報を共有しあっているわけではないのだが、その日や直近にあった話や悩み相談などオープンに共有できている関係性が羨ましく思える。

 

きっと自分が他人と話す時も一線を引いているし、

相手に尋ねる内容も一線を引いているから、安易にそのような関係が作れないからなのだろう。

じゃあ話せばいいじゃないかという話になるのだが、安易に自分の全てをさらけ出してしまうのも気が引ける。

そんなにプライベートな話を話されても困る、と思われるかもしれないし、

聞いてくれるだけで何も気にしていないかもしれないが、

自分だけ話して終わり、のパターンだった場合、後から話しすぎたかな、とか不安になるからだ。

等価交換とは言わないが、こちらの秘密を共有したらあちらの秘密も持っていたいという、心境だ。

しかしそんな心境を抱く、ということ自体相手のことをさして信用していないとも考えられる。

 

すなわち、あのカフェやバーに集まる仲の良さには達していないというわけだ。

 

やはり、あれに憧れて友達作りを構築するというよりかは、

日々の積み重ねの結果たまたまそうなる、というのが素敵なのだろう。

それが縁というものなのかもしれない。

 

縁といえば、カジュアルなバーで知り合った友達の友達と

高尾山に登ることになり、さらにその友達の友達(初対面)と三人で登山をしたがこれがなかなかに楽しかった。

その話はまた別の記事にでも書こうかな。

 

 

移民で読み解く世界史

「移民で読み解く世界史」という本を読んだ。

 

歴史が大きく動くタイミングは「移民」

世界史なので古代史から近代史、現代まで移民にフォーカスして解説。

「移民にフォーカス」という言い方をしなくても世界史=移民史なのではないか

というくらい、歴史の大きな変わり目は移民によってもたらされていた。

 

気候変動などの環境要因により、ある民族が同じ場所に定住できないと、より快適な土地を求めて移動する。移動した先で、ニーズを分け合って生きていければいいのかもしれないが、

先住民から大規模に他民族が自分たちのテリトリーに流れ込んでくることは、ただの侵略でしかない。

実際、移動した民族側の行動は野蛮で、先住民を駆逐して自分たちの安寧を築いていたように見てとれた。

侵略された側は、移民と戦って勝てば残り、負ければ駆逐される。もしくは別の土地に移り住み、その先で新しく戦いが生まれるか、、、ということになる。

 

歴史を通して、移民を受け入れた側(国家)は未来永劫従来の文化を取り戻すことができない。自国の文化を守りたければ少しの妥協も許してはならない。

1点を妥協して受け入れてしまう(土地を分け与えるなど)と、それを突破口としてずるずると乗っ取りが始まってしまう。

 

アメリカの先住民族はお人好し民族であり、移民に対して寛容的で侵略しようとしてやってきた相手にトウモロコシを分け与えるというなんとも優しい行動にも出たが、最終的に棲家を追われてしまった。

 

このように、移民の世界史について学べたわけだが、これは今後の日本の政策を考える上で是非皆さんに知っておいてほしいと感じた。

人口減少の対策として外国人労働を多数増やしている日本だが、

この政策の先、いづれ移民たちによって日本の文化が崩されてしまうのは目に見えている。

 

というか、本を読まなくても、現状そのようになっていることは認識済みだ。

 

もうこれ以上安易に移民を受け入れるような政策を取らないでほしい。

移民政策は近眼視的政策であり、長期的な日本国の存続を考えれば、安易にとっていい政策ではないのだ。

返事をくれる議員さんもいるのだ

今回の総裁選について数十名の議員さんの

お問い合わせフォームやメールで連絡したところ、1人の議員さんが返してくれた。

 

昨日の今日なので即時返信をしてくれる人はいないのではないかと思っていたが、

昨夜のメールに対して今朝返信をくださったので感激した。

 

お問い合わせフォームやメールアドレスを載せていない議員は正直市民のために政治をする気がないのかなと思ってしまうが、

このように真摯に対応してくださる議員さんもいるとしれてよかった。

総裁選も市民が動かせるのか

一体一市民、一有権者の意見がどれくらい政治に反映されるのだろうか。

そもそも政治とは、市民のために行われるべきものである。

 

ということで、今回の総裁選について、一有権者としての意見メール、連絡を

議員の方に入れさせて頂いた。

 

返信が返ってくるのかもわからないが、今回は日本の国政の危機を感じているので行動に移した。もう時間がないけれど。

なんだかんだ謳歌

すごーく変な流れになってきて、国際政治的な心配とか、ワクチンの心配とかはあるけれどそれを考えなければ割と人生謳歌している気がする。

 

ここ最近とても楽しんだからそう感じるのかもしれない。

 

会社はフルリモート期間だったので夏季休暇も合わせてしばらく実家に帰っていた。

朝昼夜ご飯は相変わらずお母さんの美味しいご飯が頂けたし、美味しいおやつもたくさん食べた。ちょうどデパートで北海道店が開催されていたのでロイズのチョコやマルセイバターサンド、濃厚ミルクプリンなどを家族と一緒に堪能した。ワンピースアニメも一緒に見た。

 

仕事が終わると実家で読みきれなかった本をメルカリ出品される前に読んだ。図書館にわざわざ行かなくても実家が図書館だった。

読んでいる途中、読み終わったあと、すぐに感想を共有することができたのもよい。

1人でいるとブログでなんとなく文章にするか、1人頭の中でぼーっと浸るしかないのだ。

 

弟も帰ってきていたので一緒にゲームもした。ゲームボーイアドバンスポケモンのカセットだったので通信はできなかったけど、同時にスタートさせてどっちが早く殿堂入りできるか、という遊びをした。もういい年した成人だが、いつまでも子供の頃の遊びが続けられる。

 

シールやメモ帳、ペン集めなど子供の頃ハマっていた収集に興味は戻らないけれど、昔ハマっていたゲームとかっていつやっても面白いものだ。それだけ日本のゲームソフトのクオリティが高いということか。

 

スイッチやってる大人はいるけれど、DSやってる大人は見ないから、レアかもしれない。

 

それから夏季休暇を利用して旅行に行けるじゃないかということで、急遽旅行にも行った。北は北海道、南は沖縄、どちらに行くか‥どちらも宣言下なので施設は開いてないし、お店も早く閉まってしまう‥山の自然を楽しみ温泉に行くか、海の自然を楽しみに泳ぎに行くか‥。

悩んだ末、まだ暖かかく、海で泳げるチャンスと思い沖縄へ飛んだ。

 

それなりに人はいたけれど混んでいる、というほどでもなく海を存分に楽しむことができた。また人の手付かずのビーチに行くと、至近距離でたくさん魚を見ることができた。最高だ。

美味しい料理屋さんも発掘し2日続けて食べに行った。

海と山に挟まれたドライブもできた。

また詳しくは別で書こうかな。

 

こうやって振り返ると今のところ、なんだかんだ人生謳歌してるわけだ。

 

うっかりGBA

GBAすなわちゲームボーイアドバンス

 

 ゲームボーイアドバンスのゲーム

ポケットモンスタールビー・サファイアが懐かしくなり、222時間のプレイ記録を削除し、1から始めてしまった。

 

初期なので、経験値も地道にコツコツ貯めるしかない。

道具を買うときも手持ちの数の参照などできない、など、3DS版以降(最近?)のものと比べると根気がある部分もあるが、しっかりと楽しい。

2日で30時間ほどやってしまった。

 

最新版はがくしゅうそうちを持たせれば全員に経験値が入ったり、ポケモンを捕まえても経験値が入ったり、などと非常にユーザーに優しい作りになっていた気がする。

ゲームでもゆとり化が進んでいる。オートプレイ機能などあるのだからすごいもんだ。

 

なんにせよ、四天王に挑戦したものの敗れてしまったので、もう少し鍛えなければならぬ。

気がついたら数行過ぎてる

母にお勧めされたThe analyst というミステリ小説がある。

かなり面白く一気に読んでしまったらしいので、私も読んでみようと思い昨日から読み始めた。

 

ところが、英語だとわからない単語もあったりし、100%理解できるわけではない。

そのせいか、文章自体は全て目を通しているはずなのに、物語に集中できていなかったのか、他のことを考えているのか、ハッと気づくと数行が過ぎていることがある。

 

日本語の文章を、読んでいても起こることもあるがこの現象は一体なんだろう。ぼーっと見ているわけでもなく、確かに目は一文字一文字を追いかけていたはずなのに、脳で理解することなく通り抜けてしまっているのだろうか。

 

英語の場合は特に、文体に慣れていないと体感で理解するのが難しいというのもあるだろう。