toimichi’s diary

思考の整理、のち、趣味

病は気から、気で治せる

先週の木曜日、全く眠ることができず寝不足で過ごした金曜日、その日の晩にブルっときてしまいました。そこから幼い微熱が下げられない状態で10日間ほど経ってしまいました。

まだ風邪を引きずっているといみちです。

 

段々と回復傾向にあったのですが、昨日またブルっときまして、これはいけない、悪化した、やばい!土曜には治さないといけないのに!とといみちエゴは超焦りました。

 

布団の中で踞りながら、ふと頭の中に浮かんだ、さくらももこさんが1日でインフルエンザを撃退した話。エッセイ本の中で書かれていた話です。

とにかく体をあっためて頭から布団に潜り、汗をかき、体内でインフルエンザ菌がやっつけられているイメージを感じて、、数時間後布団から出たら体がスッキリ、インフルエンザを治したと確信した、というような話でした。

 

これを思い出しながら私も必死に布団に蹲って、前向きになれるような話をyoutubeで垂れ流し、絶対に大丈夫、絶対に大丈夫な世界に行く、絶対に大丈夫な世界を選ぶ!等と半分ゴリ押しでアファメーションをしながら眠っていました。

数時間後、本当に症状が和らいだのです。

完治!とまではいかず、今もまだ少ししんどいのですが、この数時間でこんなに体感が変わるのか、と感動したので、病は気からは本当だ、というか本当に気でなんとか成せるんじゃないかと、改めて体感した次第です。

 

ということで治していきましょう。おやすみなさい。

エゴエゴ丸出しでも望む感情を感じれた

 

昨日、一昨日と感情を揺さぶられる出来事がありまして、エゴエゴ剥き出しで

ズドーンとショックを受けて過ごしておりました。

 

ショックを受けた第一人者でいながらも、時折それを俯瞰する感じで眺めたり、慰めたり。

 

あぁ、この感情は大切な自分を大切にされてないと感じて傷ついている、辛いよ

と言う感情なんだな。

ごめんね、そうだよね、大切にしてほしいよね。

 

そうしてちょっと落ち着いてくると、起きた現状は仕方ない=自分がそう言うものとして認識しているのだから、それはそれでいいじゃないか。と思えてきて

さぁここからどんな感情を味わいたいかな?妥協案じゃなくて本当に感じたいことは何かな?

と考え、あとは望む方を意図だけしておきました。

 

結果的に、今の所望む方向に現実は変わり(ほっ安心という感情を感じれた)

いい感じであります。

 

それでもその意図するまで、意図した後も、なんとなく心はざわざわしていたんです。

 

でも、とにかく、それはそういうものとして、(最近ハマってる?マーラの幻想無視、現実無視の感覚)私は安心してリラックスしてワクワクしてたいんだー

というスタンスで居たら、なんとかなりました。笑

 

やっぱり心揺さぶられる場面にあった時、

見て見ぬ振りをする現実無視、ではなく、

どっぷりハマってしまってもいいし、味わっちゃっていいし、それはそういうものとしてあってもいいけどーーーーーーーーーーーーー、でも素敵な方を選ぶよ。というスタンスで

最終的な軸はずらさずにいるのがいいんだなぁと思いました。

 

 

人間で〇〇縛り生活やってみた!を思い出す

YouTubeでよく〇〇縛り系の企画を目にする。

最近だと、はじめしゃちょーが横断歩道で24時間生活をしていたものを見た。

その他にもお風呂場24時間生活をしていたり、1万円分買ったものを食べ切る企画だったり、があり、

視聴者である私は、色々な縛りの中を、試行錯誤して切り抜けていく様子を見て楽しむのだ。

 

今朝、起きた時に、ふと、

あぁ今私は「人間になって24時間生活してみた!」の演者をしているんだった。と思った。

 

この体は演者だから、ここでは単に幸せー!を表現してもいいし、問題にぶつかったぞ、さぁどうしよう、無理だ!病む。。と苦しみを表現してもいい。

どちらにせよそれを見ている意識は、視聴して楽しんでいるのだ。

幸せでよかったねー、まぁ大変頑張って!と

ソファの上でブランケットにくるまって、あったかい紅茶とクッキーを楽しみながらその様子を見ているのだ。

そしてその意識自体が本体であるのだから、本質的にずっと安心していられるのではないか。

と思った。

 

このことは、人間の体を通して体験する事柄が不足であるときに思い出すと

特に有効な手段かもしれない。

 

深刻に囚われ過ぎず、まぁこのトラブルもエンタメで楽しんでるんですけどね。

本体の意識に戻ればこんなことはなんてことなかったのですけどね。

となる。

 

丁度、朝から板挟み状態になり困った心境でいたのだが、

でもこれもなんとかなりましたー!ぱちぱち!で終わっちゃうんだよね〜と思っていたら、本当に解決して今はほっこり状態です。

 

 

罪悪感は厄介だが、心地よい方に進むしかないのだ

他人事であれば

罪悪感は持たなくてもいいし、持ってもいい、好きに考えれば?

と思えるのだが、『自分ごと』として考えるとどうにも手放せないでいる。

 

手放さなくてもいい、と思っても

その罪悪感を感じている限り、Aという選択肢は選び難く、Bという選択肢を選んでしまう。

 

と、最近まで悩んでいた。

が、もしかしたら自分の本心ではBという選択肢を選びたく、その建前として罪悪感を引き合いに出しているのではないか、と思えてきた。

 

実は、Aを選択するよりBを選択したい!と自身の周りに直接的に示すことの方に抵抗を感じており、罪悪感があるからBを選ばざるを得ないのだ、とあたかも悲劇のヒロインぶることで

真に抱いていた願望のBという選択肢を選べているのかもしれない、と。

 

また、このように裏の裏を考える、みたいなことをしなくても

結果的に自分が心地よい選択をする、という意味では

罪悪感を抱いた状態でAを選ぶのか

罪悪感を抱かず解放された気持ちでBを選ぶのか、では

Bの方が結果的に心地よい方に進めるのではないか。

 

そう考えた時に、なるほどそうかもな、と思えればBの道を選べば良いし、

いや、そうは思わない、罪悪感を感じようともAを選択したいんだ、と思えれば

Aを選べば正解だ。

 

何かに迷ってしまった時はここくらいまで自分の本心を深掘りして、楽に選べる道に行けばいいかもしれない。

どちらを選んでも一緒かもしれないし、悩んでる間にCという選択肢が出てきてあっという間に解決してしまうかもしれない。

 

人生を振り返ってみると、

短期的にみて失敗だったな、と思うことがあっても長期的にみて失敗だったと思うことがない。結局いつもどの選択肢でも完璧だし、満足できるのかもしれない。

 

大きな失敗だったが、結果的によかったな、ということで思い出すのは大学受験だ。

前期で第一希望の大学を落ちてしまい、絶望の淵に立ったが、なんとか後期で拾ってくれた(が、一度も足を運んだことのない)大学へ仕方なく進んだ。

通学は2時間かかるので、朝も夜も辛く前期で落ちた、というコンプレックスを抱えていたのでなんとなく大学にそこまで好感を持てずにいた。

が、その大学では学生のうちにやりたかったことである、海外留学が実現できたのである。

 

オーストラリアへの交換留学での募集人数はたったの1人であったが、

理系である身でありながら、なぜか採用してもらえ、1年間の留学を実現することができた。

 

他の大学に進んでいた場合にどうなっていたかなどのパラレルを考えても仕方ないので、

ここはただ純粋にこちらの大学に入ったからこそ上手い具合に留学に行くことができたのだな、と思った。

留学への原動力も、受験に落ちたからこそ(ここではto自分や家族への罪悪感があった)、

これだけは実現したい!との思いがより一層強くなり突き動かされたものがあるのかもしれない。

 

長々と振り返ってしまったが、

罪悪感は厄介だが、どちらを選んでも完璧なのだから

とにかくその場で心地よい方に進んで仕舞えばいい、と納得してみた。

 

現実無視で現実が変わった、、?

いやだ、受け入れられない、早く変わってくれ、、、

そういう状況(=現実)を無視して、

でもそこに充足がある。とゴリ押ししてやり過ごしていた時期があった。

そうすると、本当にその奥の充足を実感することができ、結果的に変えたいと思っていた状況も変化していた。

 

特に体調に関わる状況だったので、気を逸らす、ということが非常に難しく感じた。

例えば、恋愛問題ならその瞬間相手のことを考えないようにして、今にのみ集中するんだ

ということができたけれど、

体調は体感として常に付き纏ってくるように感じるので

その状況を無視するということが難しかった。

でもこの体も、これをしんどいと認識しているこの心も、私ではない。

私はその奥の、充足やあったかいものを感じている。

だからこの状況はなんてことないんだ。

 

と、できる限りやり過ごしてみると

即時に切り替わったわけではないが、だんだんと体感が良くなってきた。

 

そうして楽になった瞬間に、普段通り呼吸ができている幸せや美味しいご飯がある幸せを感じ取って、

ああ、充足ってこれのことだったのだな、と浸っていた。

 

風邪をひくと健康であった有り難みがわかる、ということは経験された人もいると思うが

まさにそれの繰り返しだった。

期間が長引くにつれ、いずれ治るっしょ、という楽観視もいよいよできなくなり

現実体験や思考なんてものは幻想に過ぎない、と実感していた頃もあったはずなのに、

やはり体感でのしんどさにはどうも振り回されてしまう。

 

それでも、

この状況はマーラが見せてきている幻想だ、私はブッダだ、マーラのことは悪いけど相手にしない、無視無視。しんどいって状況を見せにきてるなー、とただただ、それを静観する立場にいた。そうすると体感もだんだんと落ち着いていったし、

その他にも、いつの間にか診断に連れて行かれて、栄養素のアドバイスが入ったり、おすすめの乳酸菌を紹介してもらったりと、

勝手に周りが動いて健康状態に貢献してくれる状況が整った。

 

前に思考を止めてポカポカ散歩を楽しんでいた時も、いい状況が勝手に作られたことがあったので、これはひょっとするとそういうことかもしれない。

 

とにかく私は体感の体調不良でかなり苦しんでいたので、

その時の対処法を備忘録的にここに記しておきたい。

現実に惑わされない。体調であったとしても

 

現実は無視、不足は存在しないのだから。

不足と思えることは幻想、真実ではない、真実は愛であったかい世界なんだから。

 

などと言っていても、体調不良で体感的にずーんと怠く重かったり、キリキリと痛んだり、起きてられなかったりしたら、この現実は現に今体感しているのだから、幻想などと言って無視することはなできないだろー!

 

と、思いませんか。

 

でも、やっぱりそれでも真実の方を見続けるしかない、と思い実験中です。

 

昨晩から喉が痛く、立直りかけた体調がまた悪化してきた、、と感じておりました。

今朝も朝起きると怠く、せっかくの土曜日なのに、、(;_;)と、悲しさとよくならない自分の体調にイライラ怒りまで湧いてきました。

 

でも、家族が

「波があるんじゃない?良くなったり悪くなったり、でもトータルで見たらだんだん上がってきてるように見えるよ。株価のチャートみたいな感じで。本人が事実として感じてる部分はわからないけど。」

のように言った時、

一瞬、だから私がしんどいって感じてるんだからしんどいんだよー!貴方の中の私がどうであれ!と、エゴが騒ぎましたが

あれ?わざわざしんどい私認定をしているのは誰だ?わざわざ体の不調な部分にフォーカスを当てて、

ほら、喉が痛いじゃないか、しんどいじゃん!

ほら、スッキリ起きれなかった、起こされたからしんどいじゃん!

ほら、だからまだ体調不調なんだよ!私はしんどいんだー!

と騒いでるのは誰?その思考に引っ張られていつまでしんどい私でいるつもりなんだろう。

と思いました。

 

割と元気になりかけている時は「元気な私」に焦点を当てて、そのまま別のことをしたりして忘れているのに、ちょっと不調具合が大きいと途端に大きく騒ぎ出します。

 

いつも、不安な思考に同化しない、を心がけていたのに、体調はリアリティがありすぎてついつい引っ張られてしまいます。もちろん、現実的に取れる策(漢方飲んだり、お医者さん行ってみたり、楽な姿勢でいたり)は取りつつですが、

いかなる状態でもそう感じている現実はそれはそうとして、そう感じていたとしても、

真実の状態ではしんどいなんてありえないんだ、私は元気なんだ。を見続けようと思います。

 

現実は無視とか不足は存在しないとか、わざわざその現実を否定しなくてもいいし、本当にそうなのかな?って軽く疑う程度でいいんだとも思います。

強く否定しにかかるのは逆にその事実を認めに行っている気がしますので、ふーん、そう感じてるんだね〜辛いよね〜。ぐらいで抑えるのがいい塩梅かも。

 

一見不足に見えること、実は好きだったんじゃない?

不足というのは、充足の反対だ。

不足が好きなんてありえない、充足に包まれていたい!と思うのだが

ふと、外国人の人がバスでSuicaで簡単に支払いを済ませている様子を見て思った。

 

あーあ、

外国に行って、チケットの買い方とか分からなくて、右往左往する。そこで自分で調べたり、現地の人とやりとりしてなんとかチケットをゲットして移動する。これが醍醐味なのになぁ〜

と。

 

この醍醐味としている部分、合理性だけを考えれば不足と言われても仕方ないかもしれない。そんなのアプリに入金しておいてパッとかざすだけでよかったら楽だしストレスないし時間もかからないよ!と。

しかしこの件は私のような見方をすれば、醍醐味という旨味、充足とも取れるのである。

 

どこでもドアがあればなぁ〜すぐに移動できるのに、こんな長距離移動嫌だ、、と思うこともあるが、不足だと決めつけず、旅の醍醐味かもしれないな?という目線で見てもいいのかもしれない。

まぁ、体調が良くない時は醍醐味云々という余裕はないのだが、そういう時は周りの人が優しいとか自分第一に動けるとか美味しいもの気にせず食べれるとか、そういう不調の醍醐味を味わってみてもいいかもしれない。

 

面白いのは、

これが嫌だ〜→あれ、案外悪くないな、どっちでもいいかな

と思考の転換ができた時、自分にとって最善の道が開けることだ。1案が良かったけど、2案でも案外悪くないと思えたからどっちでもいいや〜と思うと受け入れたのに、自分が一番心地よい道に誘導されたりする。

 

醍醐味に変換やってみる価値はあるかもしれない。