toimichi’s diary

思考の整理、のち、趣味

小説の書きかた

小説の書きかたという本を読んだ。

児童〜青年向けの小説だろう。

主人公は文芸部所属の高校2年生、賞に応募しようとのことで女子部員3人でリレー形式で小説を書き、明晰な1人の男子部員が編集者役を担当する、青春小説だ。

 

こちら、最初はそのような小説だとは知らず、

小説の書きかたについてまとめてあるハウツー本なのかな、と思って手を取った。

 

表紙からして可愛らしかったので、珍しいな、と思っていたのだが、

技法やアイディアの出しかたをまとめたような本ではなかった。

とも言い切れない。

ストーリーとしては先ほど書いたように、高校2年生が主人公の青春学園物ではあるのだが、

主人公が小説を書くにあたって、編集者役の男子部員の指摘・解説や、

夏の合宿で訪れた先にいる作家のアドバイスなど、まさに小説の書きかた、テクニックについてが散りばめられていた。

趣味で小説を書いている、応募もしたことがある、というようなレベルの人にとっては

既知の話しか出ていないと思うので、ハウツー本などとはいえないが、

自分でも小説を書いてみたいと思う小学生〜大学生までが、ストーリーを楽しみながら基本を抑えることもできる良い本だなと思った。

 

私も自分なりの小説を書きたいと思い、何度か書いたりしているのだが、結局最後まで行かないので、経験としては0に近しい。

社会人が読んでもためになるし、高校生の青春物を読むのは心が若返るしおすすめだ。

 

ジャイアン映画版の理論って自分にも当てはめたら気が楽になった

言わずと知れたジャイアン映画版の理論。

普段はのび太をいじめる横柄で嫌な奴だが、映画では思いやりがあって力強く頼れる男前キャラになるジャイアン

普段のマイナスイメージからのギャップでジャイアンの好感度は爆上がりのあの理論である。

 

似たものに少女漫画の主人公男キャラもあるかも知れない。

 

とにかく第一印象が悪かったけれど、その後のアクションが普通以上であった場合、

通常の場合以上に好印象を与えることができるのだ。

 

これを私は他者には当てはめて考えることはあったものの、自己に当て嵌めることはなかった。

仕事や、ただの雑談の場で、

初対面でうまく進行させることができなかった、うまく話せなかった、ということがあった場合、

印象最悪だ、もうこの人と仕事したくないよ、恥ずかしいよ

この人と話さないどこ、いやむしろ面白くないから話したくないと思われているはずだよ

とクヨクヨ考えて終わってしまう。

 

しかし、2回目以降に普通以上の動きをすれば、

思った以上に好印象にとってくれるかも知れない。

 

というか、ここ数日実際にそういう反応が返ってくることが多く

ジャイアン映画版理論に自分が当てはまっていることに気づいた。

 

そういうわけで、今後は初手で失敗しても

むしろラッキーぐらいで捉えようという気になった。

 

もちろん2回目以降に挽回するということは2回目がないといけないので

大コケして機会を失ってはいけない。最低限のフォローは必要なのだけれども。

ドタキャンされた予定をリスケという言葉で再設定するのはなんかズルくない

ということを最近ひしひしと感じており、

ただこのような愚痴っぽい内容を友達に話すのも嫌だったし

ブログの内容としてネガティブな話題の中でも愚痴っぽい内容はあまり書きたくないなぁ

と思っていたので書かなかった。

 

があまりにも心の中でイライラしてしまうため、書くことにする。

 

その友人からの誘いは月に一回くらいあり、仲良い方だと思っている。

 

が、誘ってきたのにドタキャンされたり、合コンなどの人数調整で誘われ、一応予定を開けたのにドタキャンされるなど、頻繁に直前にキャンセルされることが増えてきた。

 

別にめちゃくちゃ気にするほどのことでもないのだが、

その度に悪びれることもなく、リスケさせて!など、

あくまでも予定をずらすような言い方で

自分の都合の非に寄るものではない的な雰囲気を醸し出してくるので、

あまり気持ちの良いものではない。

 

せめて真正面から謝ってもらった上で、改めて予定を組むなら良いのだが、

こないだのリスケで〜ーというような文面で再び予定を組もうとしてくるので少し腹が立つ。

 

そんな誘われ方をされても誘いに乗る私も悪いのかもしれないが、

私としてはその子自身が嫌いなのではなく

振る舞いが気にかかるので、なんとかして言い方を変えて欲しいのだが、なんと伝えれば良いのかわからない。

 

ああ、それリスケじゃなくて予定の再設定だよね。言い方よくないよね。

 

とは言い出しにくいものなのである。

 

記事を書き渋っていた

記事を書き渋る、というほど熱心に更新していたわけでもないが

歯磨きの習慣のように、1日1記事更新しないと気持ち悪く、毎日更新していた時期があった。

 

己の意地、というところもあったかもしれないが、

数名だが記事を閲覧してくれる人、いいねをつけてくれる人(はてなスターというやつ)がいたおかげで、リアクションがあるのが嬉しかったのか何かしら記事を書こう、としていた。

 

が、ある時期を境に全く更新しなくなってっしまった。

 

おそらく転職後、自分の任せてもらう領域が発生して責任感を持って熱心に仕事に向かっていたために、本を読んだり、何かにつけて思いを馳せる、という時間が減ったからだろう。

 

わざわざ記事に起こすほどでもないな、

なんとか振り絞って書いてみても、

こんな稚拙な文章をわざわざ公開する必要もないな。と思えてしまい、更新をパタリと辞めてしまった。

 

辞めてしまったのはブログの更新だけではなく、本を読んだり食事に気を使ったりと、

活動的なこと全てを辞めてしまっていた気がする。

ものすごくなんのやる気も出ず、そしてやってみても面白く感じなくてただただ無気力に過ごしていた。

 

そんな無気力な数週間を過ごしていた際、土日に長野に旅行に行ったのだが、

松本城の近くの四柱神社で御神籤を引いた。

御神籤結果は吉だったが、見事に何をやるにもよくない時期だったらしい。

恋愛も自分を抑えよ。争い事は勝てないから口を開くな。転居もタイミングを改めよ。など、

全てにおいて今動いても意味がないよ、というようなお告げだった。

 

動くような気力もあまりなかったのだが、

今思うと波動か何かしらの関係で、とにかくあの時期は何もしなくても良かったのかな、という気もした。

 

最近は少しそういう時期を脱したような気がしてきているので

もう少し活力的に動きたいなと思う。

 

何か趣味、とかうーん熱中できることとか、なんかないかなぁ

結婚とか新しい幕開けとかならないかなぁ

FRIENDSに憧れるわけ

FRIENDSやHow I Met Your Motherなどの海外ドラマにハマっていた時期がある。

時期がある、というか今も見れたら何度でも見たいのだが、AmazonPrimeVideoでは見れないし、Netflixは解約しちゃったしで最近は見ていない。

 

だが、FRIENDSのあの仲良しグループがカフェで集まって何やら身の上話で盛り上がっているところや、同じくHow I Met Your Motherの仲良しグループがバーに集まって盛り上がっているところを思い出すと心あったまるし、羨ましくなる。

 

ああ、自分もあの中の一員だったらな、とか、あんな感じのグループや溜まり場があったらな、と思う。

友達がいないわけではなく、中学からの友人もいるし、社会人になってからの友人もいるけれど、常に顔を合わせているわけじゃないし、全部が全部お互いのことを共有しているわけでもない。

 

先にあげた海外ドラマの中でもみんな一から百まで情報を共有しあっているわけではないのだが、その日や直近にあった話や悩み相談などオープンに共有できている関係性が羨ましく思える。

 

きっと自分が他人と話す時も一線を引いているし、

相手に尋ねる内容も一線を引いているから、安易にそのような関係が作れないからなのだろう。

じゃあ話せばいいじゃないかという話になるのだが、安易に自分の全てをさらけ出してしまうのも気が引ける。

そんなにプライベートな話を話されても困る、と思われるかもしれないし、

聞いてくれるだけで何も気にしていないかもしれないが、

自分だけ話して終わり、のパターンだった場合、後から話しすぎたかな、とか不安になるからだ。

等価交換とは言わないが、こちらの秘密を共有したらあちらの秘密も持っていたいという、心境だ。

しかしそんな心境を抱く、ということ自体相手のことをさして信用していないとも考えられる。

 

すなわち、あのカフェやバーに集まる仲の良さには達していないというわけだ。

 

やはり、あれに憧れて友達作りを構築するというよりかは、

日々の積み重ねの結果たまたまそうなる、というのが素敵なのだろう。

それが縁というものなのかもしれない。

 

縁といえば、カジュアルなバーで知り合った友達の友達と

高尾山に登ることになり、さらにその友達の友達(初対面)と三人で登山をしたがこれがなかなかに楽しかった。

その話はまた別の記事にでも書こうかな。

 

 

移民で読み解く世界史

「移民で読み解く世界史」という本を読んだ。

 

歴史が大きく動くタイミングは「移民」

世界史なので古代史から近代史、現代まで移民にフォーカスして解説。

「移民にフォーカス」という言い方をしなくても世界史=移民史なのではないか

というくらい、歴史の大きな変わり目は移民によってもたらされていた。

 

気候変動などの環境要因により、ある民族が同じ場所に定住できないと、より快適な土地を求めて移動する。移動した先で、ニーズを分け合って生きていければいいのかもしれないが、

先住民から大規模に他民族が自分たちのテリトリーに流れ込んでくることは、ただの侵略でしかない。

実際、移動した民族側の行動は野蛮で、先住民を駆逐して自分たちの安寧を築いていたように見てとれた。

侵略された側は、移民と戦って勝てば残り、負ければ駆逐される。もしくは別の土地に移り住み、その先で新しく戦いが生まれるか、、、ということになる。

 

歴史を通して、移民を受け入れた側(国家)は未来永劫従来の文化を取り戻すことができない。自国の文化を守りたければ少しの妥協も許してはならない。

1点を妥協して受け入れてしまう(土地を分け与えるなど)と、それを突破口としてずるずると乗っ取りが始まってしまう。

 

アメリカの先住民族はお人好し民族であり、移民に対して寛容的で侵略しようとしてやってきた相手にトウモロコシを分け与えるというなんとも優しい行動にも出たが、最終的に棲家を追われてしまった。

 

このように、移民の世界史について学べたわけだが、これは今後の日本の政策を考える上で是非皆さんに知っておいてほしいと感じた。

人口減少の対策として外国人労働を多数増やしている日本だが、

この政策の先、いづれ移民たちによって日本の文化が崩されてしまうのは目に見えている。

 

というか、本を読まなくても、現状そのようになっていることは認識済みだ。

 

もうこれ以上安易に移民を受け入れるような政策を取らないでほしい。

移民政策は近眼視的政策であり、長期的な日本国の存続を考えれば、安易にとっていい政策ではないのだ。

返事をくれる議員さんもいるのだ

今回の総裁選について数十名の議員さんの

お問い合わせフォームやメールで連絡したところ、1人の議員さんが返してくれた。

 

昨日の今日なので即時返信をしてくれる人はいないのではないかと思っていたが、

昨夜のメールに対して今朝返信をくださったので感激した。

 

お問い合わせフォームやメールアドレスを載せていない議員は正直市民のために政治をする気がないのかなと思ってしまうが、

このように真摯に対応してくださる議員さんもいるとしれてよかった。