toimichi’s diary

思考の整理、のち、趣味

観念に気づくだけで良かったのか?

最近自分のエゴが騒ぐ時を見ていると

あーーそれ以上自分の領域に踏み込んで欲しくないんだなー

って仔犬がキャンキャン騒いでるのを見ている気分になる。

 

なんというか、凄くしょうもないことでも、プライベートなことをあまり知人に知られたくないらしい。距離が近ければ近いほどなんか嫌らしい。(家族とか、家族だからこそ?)

 

それこそが他人と自分を分けるもので

図で表すと○の外枠みたいなもので

それがなくなってしまうと みたいに、境界線がなくなってしまうのだ。だから境界線をはっきりさせておく必要のある=近しい人にはプライベートな情報を共有しない、ということによって自我を保っているらしかった。

 

もっというとそこに気づいて欲しかったというか、そういう理由で、何してるの、誰と行ったの、どこに行ったの、どうして?みたいな情報を根掘り葉掘り聞かれたくないみたいだ。

誰とどこに行って何してたかなんてあなたには関係ないじゃん、その時私がその人と何してたかはその人と二人だけの思い出!!(とまでは全然思っていないが)

こういう反応をする。ので、最近では聞かれそうになる前に(勝手にそういう未来を予測して作り出して)身構えて聞かれる前に話題を変える、みたいな行動をとることが多い。

 

なんでここ最近顕著にこんな反応を露骨に表してくるのかなーと思っていたのだが、

なーんかいい言い方をすると浄化が進んでいるというか、最後の関門、観念みたいなのが炙り出されるようになってきた。

 

そういう観念に気づくと、わーそうかそうかーって仔犬撫でるみたいにして、あとはじゃあねー河原でアイス食べてくるわ!と凄く楽になれる。あなたといると最高に楽でたのしいよなんでこんな楽しいの!?って気分になる。笑

 

自分の観念に気づいて、気づいたはいいもののこれどうにかした方がいいのか、とか思ってたけど、案外気づきがゴールだったような気もする。

 

寂しがり屋な子が構って欲しくてめっちゃメッセージ送ってきたり、電話してきたり、そういうのってもちろん行動で返して欲しいのもあるかも知れないけど、その行動の裏に隠された本音(=寂しいよ)に気づいて欲しくてやっていると思う。怒ってる人も、相手に直接いうわけでもないのに、怒って叫んでたり、物にバンバン八つ当たりしているのは、結局(怒ってるよ)をちゃんと認めて欲しくてやってるんじゃないかな。

 

それと同じかなー。

自分と思ってるこの体が掴んでた観念に気づいて欲しくて色んな反応で見せつけてきたのかなーって。

 

気づいたら気づいたでこっちももう一緒になってワーワー騒ぐわけではないので、それで終了。現象としてまた大きく変わってきたら面白いね。