toimichi’s diary

思考の整理、のち、趣味

やっぱり全部自分で決めてたんだなって腑に落ちた瞬間

他人から『もっと正しい方法で運動したら引き締まるよ!』みたいなアドバイスをされた。

その人は悪気があって言ったわけじゃないし、むしろ魅力に磨きがかかるという好意的な意味合いで何気なく言った言葉らしいのだが、その言葉を聞いて私は悲しくなった。苛立ちを感じた。

 

なんで体型変えないといけないの、今のままじゃ魅力的じゃないって言いたいの、なんで認めてくれないの、そんな風に見ていたんですか、、

そういう思考に囚われて、怒りや悲しい感情に浸ってた。

思考は自分のものではない、ただ習慣的に湧き上がっているものを自分のものだと勘違いしているんだ、というように距離を置いてみても、嫌だという感情は消えない、嫌なものは嫌だった。

 

そこでふと思った。なんで嫌なんだろう?

嫌だと思ったのは図星をつかれたから。

自分で自分の顔や体を認めていないから。

ここ1ヶ月くらい体調不良で(熱は数日でひいたがずっと風邪のだるいなーっていう症状が続いていた)、何もやる気が起きず、最低限家で仕事をして、食欲はあるから美味しいもの食べて、それ以外は寝そべっている、という生活をしていた。

そのため、体が緩んできたなーというのは実感していた。(なんか歩く時もお尻のお肉がむにむにして邪魔だなぁ、やだなぁ。とか)

 

そこでなんとなく、自分は太ってきて魅力的じゃないんじゃないか、というように自分を認識していたんだと思う。

太っているということは魅力的じゃないし、そんな自分は認めない、愛さない。

そうやって勝手にありもしないことを現実のことと決めつけて、自分を否定していた。だから他人から言われて過度に反応した。(実際相手が伝えたかったニュアンスより遥かにネガティヴに受け取っていた)

 

でも思考と距離を置いてふと気がついた。

自分が太っているって本当に?その基準ってなんなわけ?自分で勝手に言ってるだけじゃん。少なくとも周りの誰もそんなことは言ってないし自分が勝手にそう決めただけだよね。

そう決めてそれは嫌だ、こんな自分は嫌いだって言ってるだけだよね。

でもそもそも本当は自分のこと認めて愛してあげたいし、

本当の自分は魅力的な体型、顔なんじゃないの?

違うものを見ているからネガティヴな感情を受け取っているんじゃないの?そっちの方向は違うよって。

あれ?そうだよね。全部私が勝手に決めてるだけじゃん。

全部自分で決めてるんだからなりたい自分になるだけ、チョイスするだけ、みたいな言葉を目にしたことがあって、その時はふーん、程度でそれができたら悩みなんてないよなって思っていたけど急に自分の中にストンと落ちた。

確かにそうだった、全部自分の認識は自分で決めていた。

結局、誰に認められても自分が認めないと気が済まなかった。99人に痩せてるよね、小顔だよねって言われても、自分1人が認めないことには自分を認めてあげれなかった。例えオードリーヘップバーンにあなたは私より綺麗よって言われたとしても、それこそ社交辞令でしょって認めてあげなかったと思う。

だから認めてあげようって思った。自分を否定しないであげよう、どうやったら気持ちよく入れるかな。

というか全部自分で決めていいんだから、最高な自分でいようっと。

まず私は可愛いし、小顔だし、スタイルもいいし、何を食べてもスタイルいいままだからお食事も楽しい。私の世界だから私が決めたらそれが真実。え、じゃあ私ってめっちゃ素敵じゃん、条件なくても愛するし、愛されるけど、真実は外見も魅力的なんだ。

 

そう思ったらなんかストーンって腑におちた。

あとで上の発言をした人に傷つけちゃってごめんねって謝ってもらったんだけど、

これも私が私に謝って欲しかったんだなって思って。

勝手に悪い設定にして嫌ってて否定して認めてあげなくてごめんねって思った。

(時間の記憶では、思ったのが先で、謝ってもらったのはそのあとだったと思うけど)

 

自分で決めているっていうのは思考とはまた別なんだよな。

思考とか感情で想定したことがそうなるわけではなくて、意思とか意識とかの方が決めている気がする。

 

防衛反応のように悪い結果を想定してしまう思考にとらわれることも多かったけど、結果的にほら思った通り悪いようになった、とはならない(なることもあった気もする)。

つまり思考には何かを決定する力はない。無意識状態で生きないように、意識をちゃんと持って今に生きて自分を愛してあげようと思いました。