toimichi’s diary

思考の整理、のち、趣味

その思考は本当に私のものなのか

その思考は本当に私のものだろうか。

以前湧いてくる思考はただシャボン玉が流れてくるかの如く、ただただ勝手に湧いてくるものであって、本当の自分のものではないのだ、と書いた気がする。

 

それでも知らず知らずのうちに、これは自分の思考だ、これは自分のこだわりだ、これは自分のアイデンティティだ、これは9割私が考えていることが正しいのだ。と思っていることがよくあった。今もあるかもしれない。

そう考えているときは、そのような思考に乗っ取られてしまって、その思考=自分になっていて、その思考に沿う周りの状況に良しと判断して好感を持てるし、沿わない状況には悪しと判断して不快になる。

 

しかし、ふと、その判断基準となっている思考や、判断を行っているものは本当に本当の自分なのか?と疑問を感じた。

これは私の思考ではないな、と簡単に切り捨てられたものはさっぱりと流せるのだが、

昔からの慣習や、親がずっと言っていた内容などは、それが正義であり、心地よく、そうあるべきで、その中で生きているのが私のアイデンティティとなっていた部分がありそうだ。

 

特に私は母親と長く過ごしていたし、母親が大好きであり、時には怒られ怯えていたので、母親の意見や思考の影響を多大に受けていると思う。

(もちろん、専業主婦として子育てに専念し、愛情をたっぷり注いでくれた母親には大変感謝している。今でも大好きで大切な存在である。)

 

どうも私が何かを決定する際は、母親がOKを出してくれそうか、(同意を示してくれそうか、好感を示してくれそうか)で判断している傾向にあるし、

実家でしてきた慣習や、判定基準にかなり影響を受けている。もちろん本当にそれが一般的にも科学的も正当だと言うこともあるかもしれないが、逆に言うとそれに当てはまらないものを悪と判断してしまっているのかもしれない。

 

例えば私の母はかなり綺麗好きだったので、食品関係以外のものをキッチンで洗うのは論外、と言うタイプだった。なので私も口に運ぶものを扱う場で、うがいをされたり、帰宅後の手洗いをされるのはすごく嫌だなと感じているし、汚いと判断している。

食品を扱うところでは、食品に関するものしか洗わない、と言う方が理に適っていると今でも感じてしまうのだが、

一方で本当にそうだろうか?本当に私はそう思っているのだろうか?と疑ってみたりもする。そう思っているから、悪だと判断して嫌な気持ちになるだけで、もしそう思っていなかったらニュートラルな気持ちで眺めていられたかもしれない。

また、実際どれだけの差や影響があるのかは、その付近の水滴やシンクやそのシンクで扱われた食材を一つ一つ検査しなければ結局のところはわからない問題である。

 

きっとありとあらゆる事柄でこのようなパターンは潜んでいるので、すぐ気付けないもの、習慣になっているものにもはたと疑問を呈してみたり、思考を完全にストップさせてみるのは有効かもしれない。

 

さて、最近おサボりしていた瞑想に戻ります。