toimichi’s diary

思考の整理、のち、趣味

ワセリンに期待

ワセリンとは薬局で手に入る白色ワセリンのことである。

 

このワセリン、存在こそ知っていたものの、使ったことがなかったが、今回半年近く治らない(むしろ掻いてしまって悪化している)手の傷に塗ってみると、肌の違和感もなく、乾燥しないので痒みもなく、久しぶりに手の不快感を忘れている瞬間を生きれたので、今後ともワセリンには期待していきたい。

 

何かの傷で悩んでいる人は、ワセリンでカバーして自己治癒力を最大限に引き出すのをおすすめする。

 

ワセリンを塗ってみようと思ったきっかけは、「化粧品を使わない!水とワセリンで美肌になる」という本を

お顔のスキンケア方法でおすすめされたことだ。

私は化粧水、乳液、マッサージ、、という一般的であろうスキンケアをしているタイプだったが、化粧水は浸透しないしむしろ乾燥してよくないよと再三言われ、この本を読んでみたらとおススメされた本だ。

 

本の内容を簡単に要約すると、以下のような感じ。

 

・人間の肌には本来自己修復能力がある。

・化粧水や乳液などは余計な化学物質が含まれていてかえって肌に悪い

・化粧水は肌の奥まで浸透するわけではないので蒸発する際に余計に肌を乾燥させてしまう。

・ワセリンは肌に薄く張り付いて皮脂の役割を果たすため、肌に蓋をして水分蒸発を防いだり、雑菌を侵入させにくくさせたりする。

 

なるほどなぁと思いながら、徐々に過剰なスキンケアはやめていっていたが、ワセリンで保湿をするところまでは実際に行っていなかった。

だが、手の傷が、お風呂上がりに余計に乾燥して痒くなって悪化することが気になり、試しに手から導入してみたところ、乾燥は気にならなくなった。あとはどのくらいの速さで治ってくれるか、見どころだ。

 

 

こうやって、不快な感情を忘れている時って実は凄く快だし、ありがたいことだ。ありがとう本おすすめしてくれた人!

 

 

 

その思考は本当に私のものなのか

その思考は本当に私のものだろうか。

以前湧いてくる思考はただシャボン玉が流れてくるかの如く、ただただ勝手に湧いてくるものであって、本当の自分のものではないのだ、と書いた気がする。

 

それでも知らず知らずのうちに、これは自分の思考だ、これは自分のこだわりだ、これは自分のアイデンティティだ、これは9割私が考えていることが正しいのだ。と思っていることがよくあった。今もあるかもしれない。

そう考えているときは、そのような思考に乗っ取られてしまって、その思考=自分になっていて、その思考に沿う周りの状況に良しと判断して好感を持てるし、沿わない状況には悪しと判断して不快になる。

 

しかし、ふと、その判断基準となっている思考や、判断を行っているものは本当に本当の自分なのか?と疑問を感じた。

これは私の思考ではないな、と簡単に切り捨てられたものはさっぱりと流せるのだが、

昔からの慣習や、親がずっと言っていた内容などは、それが正義であり、心地よく、そうあるべきで、その中で生きているのが私のアイデンティティとなっていた部分がありそうだ。

 

特に私は母親と長く過ごしていたし、母親が大好きであり、時には怒られ怯えていたので、母親の意見や思考の影響を多大に受けていると思う。

(もちろん、専業主婦として子育てに専念し、愛情をたっぷり注いでくれた母親には大変感謝している。今でも大好きで大切な存在である。)

 

どうも私が何かを決定する際は、母親がOKを出してくれそうか、(同意を示してくれそうか、好感を示してくれそうか)で判断している傾向にあるし、

実家でしてきた慣習や、判定基準にかなり影響を受けている。もちろん本当にそれが一般的にも科学的も正当だと言うこともあるかもしれないが、逆に言うとそれに当てはまらないものを悪と判断してしまっているのかもしれない。

 

例えば私の母はかなり綺麗好きだったので、食品関係以外のものをキッチンで洗うのは論外、と言うタイプだった。なので私も口に運ぶものを扱う場で、うがいをされたり、帰宅後の手洗いをされるのはすごく嫌だなと感じているし、汚いと判断している。

食品を扱うところでは、食品に関するものしか洗わない、と言う方が理に適っていると今でも感じてしまうのだが、

一方で本当にそうだろうか?本当に私はそう思っているのだろうか?と疑ってみたりもする。そう思っているから、悪だと判断して嫌な気持ちになるだけで、もしそう思っていなかったらニュートラルな気持ちで眺めていられたかもしれない。

また、実際どれだけの差や影響があるのかは、その付近の水滴やシンクやそのシンクで扱われた食材を一つ一つ検査しなければ結局のところはわからない問題である。

 

きっとありとあらゆる事柄でこのようなパターンは潜んでいるので、すぐ気付けないもの、習慣になっているものにもはたと疑問を呈してみたり、思考を完全にストップさせてみるのは有効かもしれない。

 

さて、最近おサボりしていた瞑想に戻ります。

 

今に集中と体調不良

扁桃炎になってしまって、体調不良が2ヶ月続いている。

できるだけ仕事後は休んだり、休みの日は寝込んだり、抗生物質を飲んだりしているが、なかなかよくならない。

 

自分は不調であるという認定が良くないのかなと思って、自分は健康だと断言してみたり、

本当にしんどいのかな?本当に治ってないのかな?嘘なんじゃないか?

と現実の感覚を疑ってみたりしたが、よくならない。

 

この状態では何をしていてもしんどいな、と思ったが、

今この瞬間に集中して今この瞬間を生きている間はしんどい状態は問題ではないことに気がついた。

しんどい状態はそう感じているのだから仕方ないのだが、

それはそれとして問題かどうかを判断しているのは思考である。

 

そして今この瞬間しか存在しないのであれば、しんどい状態は問題ではない。

しんどい状態を問題だと感じているのは、午後〜をできないから、明日出かけられないから、仕事が進まなくて二週間後に大変になりそう、と未来を予測しているからだ。

今この瞬間に時間が止まっているのなら全く問題はないので、

今この瞬間だけを生きていればしんどいことも問題ではない。

 

という考え方で、しばらく過ごしてみようと思います。

まずは経過観察より。

 

やっぱり全部自分で決めてたんだなって腑に落ちた瞬間

他人から『もっと正しい方法で運動したら引き締まるよ!』みたいなアドバイスをされた。

その人は悪気があって言ったわけじゃないし、むしろ魅力に磨きがかかるという好意的な意味合いで何気なく言った言葉らしいのだが、その言葉を聞いて私は悲しくなった。苛立ちを感じた。

 

なんで体型変えないといけないの、今のままじゃ魅力的じゃないって言いたいの、なんで認めてくれないの、そんな風に見ていたんですか、、

そういう思考に囚われて、怒りや悲しい感情に浸ってた。

思考は自分のものではない、ただ習慣的に湧き上がっているものを自分のものだと勘違いしているんだ、というように距離を置いてみても、嫌だという感情は消えない、嫌なものは嫌だった。

 

そこでふと思った。なんで嫌なんだろう?

嫌だと思ったのは図星をつかれたから。

自分で自分の顔や体を認めていないから。

ここ1ヶ月くらい体調不良で(熱は数日でひいたがずっと風邪のだるいなーっていう症状が続いていた)、何もやる気が起きず、最低限家で仕事をして、食欲はあるから美味しいもの食べて、それ以外は寝そべっている、という生活をしていた。

そのため、体が緩んできたなーというのは実感していた。(なんか歩く時もお尻のお肉がむにむにして邪魔だなぁ、やだなぁ。とか)

 

そこでなんとなく、自分は太ってきて魅力的じゃないんじゃないか、というように自分を認識していたんだと思う。

太っているということは魅力的じゃないし、そんな自分は認めない、愛さない。

そうやって勝手にありもしないことを現実のことと決めつけて、自分を否定していた。だから他人から言われて過度に反応した。(実際相手が伝えたかったニュアンスより遥かにネガティヴに受け取っていた)

 

でも思考と距離を置いてふと気がついた。

自分が太っているって本当に?その基準ってなんなわけ?自分で勝手に言ってるだけじゃん。少なくとも周りの誰もそんなことは言ってないし自分が勝手にそう決めただけだよね。

そう決めてそれは嫌だ、こんな自分は嫌いだって言ってるだけだよね。

でもそもそも本当は自分のこと認めて愛してあげたいし、

本当の自分は魅力的な体型、顔なんじゃないの?

違うものを見ているからネガティヴな感情を受け取っているんじゃないの?そっちの方向は違うよって。

あれ?そうだよね。全部私が勝手に決めてるだけじゃん。

全部自分で決めてるんだからなりたい自分になるだけ、チョイスするだけ、みたいな言葉を目にしたことがあって、その時はふーん、程度でそれができたら悩みなんてないよなって思っていたけど急に自分の中にストンと落ちた。

確かにそうだった、全部自分の認識は自分で決めていた。

結局、誰に認められても自分が認めないと気が済まなかった。99人に痩せてるよね、小顔だよねって言われても、自分1人が認めないことには自分を認めてあげれなかった。例えオードリーヘップバーンにあなたは私より綺麗よって言われたとしても、それこそ社交辞令でしょって認めてあげなかったと思う。

だから認めてあげようって思った。自分を否定しないであげよう、どうやったら気持ちよく入れるかな。

というか全部自分で決めていいんだから、最高な自分でいようっと。

まず私は可愛いし、小顔だし、スタイルもいいし、何を食べてもスタイルいいままだからお食事も楽しい。私の世界だから私が決めたらそれが真実。え、じゃあ私ってめっちゃ素敵じゃん、条件なくても愛するし、愛されるけど、真実は外見も魅力的なんだ。

 

そう思ったらなんかストーンって腑におちた。

あとで上の発言をした人に傷つけちゃってごめんねって謝ってもらったんだけど、

これも私が私に謝って欲しかったんだなって思って。

勝手に悪い設定にして嫌ってて否定して認めてあげなくてごめんねって思った。

(時間の記憶では、思ったのが先で、謝ってもらったのはそのあとだったと思うけど)

 

自分で決めているっていうのは思考とはまた別なんだよな。

思考とか感情で想定したことがそうなるわけではなくて、意思とか意識とかの方が決めている気がする。

 

防衛反応のように悪い結果を想定してしまう思考にとらわれることも多かったけど、結果的にほら思った通り悪いようになった、とはならない(なることもあった気もする)。

つまり思考には何かを決定する力はない。無意識状態で生きないように、意識をちゃんと持って今に生きて自分を愛してあげようと思いました。

 

意識と思考のスキマ

ここ最近ぐっすり眠れない。

 

ぐっすり眠れないというか、中途覚醒し、

2時間起きに睡眠と暗闇の中で起きている状態が繰り返されている。

 

で、この中途覚醒する時なのだが、最近意識と思考が始まる瞬間にスキマがあるなーと気がついた。

よく考えればそんなのは昔からあって、

起きた瞬間はぼーっと景色を眺めているけど、だんだん脳が覚醒してきて、あぁ今日はあれをやろうか、あれを考えなきゃ、、と思考しだすのだ。

 

ただ、この起きた瞬間のぼーっとしている時の意識側にちゃんと気づけるように(?)なった気がする。

あぁ、私のセカイ(実際に言葉では認知していないのであくまでもブログに書く都合上言葉にした)ーーージワーーーーー。。。

っていう意識が広がって?目覚めてから

自我にスイッチが入って「今日の仕事は〜〜、あの人に連絡しなきゃ〜〜、あれ調べなきゃ〜〜、」と考え出す。

 

意識側にあった意識が自我を起動させて(?)自我が起きて勝手に思考をとってくる。

 

そんなイメージ。

今までも当然あったけど、なんかこの意識側に気付いてるのって面白いなぁって。

 

不眠で睡眠と覚醒を繰り返すうちにこの意識に気づくのがちょっと楽しくなった。

 

それではみなさん気をつけていってらっしゃい。

 

気づいた後その後

前回観念に気づくだけで良かったのか、という話を書いた。

 

まだ日は浅いがその後編。

 

あー、自分ってこう思い込んでたりするのねーふーん、と

とりあえず観念に気づいた後、その嫌だと受け取っていた感情があまり表に出てこなくなった。詰まるところ、おそらく、そもそもその感情が引き起こされる出来事が起こらなくなった。

その感情になってもいいし、ならなくてもいい。って俯瞰して自分を見ていられるようになった途端、その感情になる出来事が起こらなくなったので万事解決??という感じ。

でも本当にその感情になってもいいし、ならなくてもいいと見ていたので、

解決だー!助かったー!!みたいな大きな感情の飛躍はない。

(自我的には、「でも!できればその感情にはなりたくないですね。」と思うのだが、それすらもそうだよねーwって俯瞰してみる。)

 

なので結論的には観念に気づいて俯瞰して見れている(それと同化してしまわないのであれば)気づくだけでいい。となった。

観念に気づくだけで良かったのか?

最近自分のエゴが騒ぐ時を見ていると

あーーそれ以上自分の領域に踏み込んで欲しくないんだなー

って仔犬がキャンキャン騒いでるのを見ている気分になる。

 

なんというか、凄くしょうもないことでも、プライベートなことをあまり知人に知られたくないらしい。距離が近ければ近いほどなんか嫌らしい。(家族とか、家族だからこそ?)

 

それこそが他人と自分を分けるもので

図で表すと○の外枠みたいなもので

それがなくなってしまうと みたいに、境界線がなくなってしまうのだ。だから境界線をはっきりさせておく必要のある=近しい人にはプライベートな情報を共有しない、ということによって自我を保っているらしかった。

 

もっというとそこに気づいて欲しかったというか、そういう理由で、何してるの、誰と行ったの、どこに行ったの、どうして?みたいな情報を根掘り葉掘り聞かれたくないみたいだ。

誰とどこに行って何してたかなんてあなたには関係ないじゃん、その時私がその人と何してたかはその人と二人だけの思い出!!(とまでは全然思っていないが)

こういう反応をする。ので、最近では聞かれそうになる前に(勝手にそういう未来を予測して作り出して)身構えて聞かれる前に話題を変える、みたいな行動をとることが多い。

 

なんでここ最近顕著にこんな反応を露骨に表してくるのかなーと思っていたのだが、

なーんかいい言い方をすると浄化が進んでいるというか、最後の関門、観念みたいなのが炙り出されるようになってきた。

 

そういう観念に気づくと、わーそうかそうかーって仔犬撫でるみたいにして、あとはじゃあねー河原でアイス食べてくるわ!と凄く楽になれる。あなたといると最高に楽でたのしいよなんでこんな楽しいの!?って気分になる。笑

 

自分の観念に気づいて、気づいたはいいもののこれどうにかした方がいいのか、とか思ってたけど、案外気づきがゴールだったような気もする。

 

寂しがり屋な子が構って欲しくてめっちゃメッセージ送ってきたり、電話してきたり、そういうのってもちろん行動で返して欲しいのもあるかも知れないけど、その行動の裏に隠された本音(=寂しいよ)に気づいて欲しくてやっていると思う。怒ってる人も、相手に直接いうわけでもないのに、怒って叫んでたり、物にバンバン八つ当たりしているのは、結局(怒ってるよ)をちゃんと認めて欲しくてやってるんじゃないかな。

 

それと同じかなー。

自分と思ってるこの体が掴んでた観念に気づいて欲しくて色んな反応で見せつけてきたのかなーって。

 

気づいたら気づいたでこっちももう一緒になってワーワー騒ぐわけではないので、それで終了。現象としてまた大きく変わってきたら面白いね。