toimichi’s diary

思考の整理、のち、趣味

とりあえずよくわかんないけど真理的なものを考え始めた。

とりあえず書いておきたいと思ったので久しぶりにブログに書くことにする。

書いても別に誰も見ていないだろうし、自分で見返すこともほとんどない(自分の書き殴った文章は稚拙だし、口調が偉そうであったり好きな小説の主人公の語り口調に似ているような気がして、気恥ずかしくなるからだ。今だってそうかもしれないけれど、とにかくこのように書いてしまうのはそれが自然な文章なのだから仕方がない云々)

 

とりあえず何を書きたかったかというと、一言で言えばこの世界の真理とか、引き寄せの類の話かもしれない。何か数式を発見した!という話でもないし、小説家になりたいと思っているけれど一日1ページしか書けていないというようなどうでもいい日記の話でもない。

 

特に結論があるものはではない。ただ、一連の流れや心情を可能なら時系列的に、書き残しておきたいだけである。

ここ最近自分が考えていたことを裏付けるような内容が外部から立て続けに入ってきて、ひょっとしてもしや何かこの世界の真理的なものに近づいてるのかも!?と思ったこの一連の流れを書き残しておきたいだけである。

 

と、何回も何を書きたいかについて書いていてループしているのでそろそろ本題を書くことにする。後で見返して、気になるなら適当に消せばいい。

 

①自分でふと思ったこと

 

ここ最近小説を書いたり、日記を書いたり、何か文字をノートに書く。と言うことにハマっていたのだが、それ以外にもこうなったらいいな、いや是非実現させたい、これが現実になれ!と言うこともノートに書いたりしていた。いわゆる引き寄せノート的なものをやっていた。

こんな感じで書いてたかなぁ

YouTubeのチャンネル登録者が500人行きますように。

・自分の船が手に入りました、やったーありがとう!

・なぜかわからないけどいいギターをもらえました。ギターもがんばる!

 

でもふと気がついた。

書きたいから願望を書いていたんだけど、願望を書く、と言うのがある意味楽しく、ある意味それが目的になっていて、願望は叶っていないけど、願望を書く毎日が続いていたことに。

(話は逸れるが、全く叶わなかったわけではなくて、例えばもう数字なんてどうでもいいやと思い始めたYouTubeの登録者数とかはなぜか増えてた。聴いてくださってありがとうございますm(__)m)

別に叶っても叶わなくてもいいけど、叶ったら最高だろうなーと言う願望は、毎日ただ書くだけで、死ぬまでに叶ってなくてもそれはそれで書くのが楽しかったのだからいいじゃん、と言う話なのだが、

本当にできるだけ早く叶って欲しい願望も書いていたわけで、

一週間以内にこれが叶ってほしい、と内心思っていることを毎日書いていると、それが実現するのはいつなんだろう、あれ、これってこう言うふうに書いたり、願望を書くこと自体が楽しいと思い込んでる間はいつまで経っても叶わないんじゃない?

っていうかもう持ってるんじゃない?もう手にしていて、それでいて今ないから欲しいよ〜、で仮に手に入ったら喜びを味わえる〜とか考えてるんじゃない?とふと気づいた。(なんでこの瞬間に全て持ってるって思えたのか謎だが、本当にその時はそう思った。もう実は全部手にしていると、その思った瞬間はただ机に向かって座っていただけだけど、そう思った。)

ふと気づいたので、あーもう持ってないふりとかはいいから持ってるそれを味わってしまいたいなーとだけ思って、『いつか叶う』『今から数えて近いうちに叶う』、みたいな未来に実現を設定して現実に叶っていない状況を楽しむのはもうやめようと思った。

 

そこからはなんかもう叶ってるしな〜マインドでいた。

 

②この考えを後押しするかのようなシンクロニシティ-動画編

その次の日、朝一ベッドの中でYouTubeを開くと、偶然おすすめ画面に「今今メソッドを行ったら人生いいことしか起こらなくなった」的な、引き寄せの法則?に焦点を当てたような動画が表示された。ゆっくり実況の合成音で2チャンネルだか5チャンネルだかの掲示板の内容を音声で流してくれているものだった。(朝一は決まって瞑想動画を流していたのだが、なぜかその日だけはそのおすすめ動画を流してしまった。)

その動画の内容はスレッドのごく一部だったと思うが、とにかく以下の今今メソッドを行って今に焦点を当てているだけで、自然と人生は良い方向に流れて願望実現もお手のもの、的な内容だった気がする。

今今メソッド=常に今ここに焦点を当てて、今安全であることに気づくこと。とにかく今この瞬間しか生きられないので、今この瞬間を感じること。

(そして今恵まれていることに気づいて感謝することが大事なのかな?とも後から感じた)

 

で、この今今メソッドに興味が湧いて実際のスレッドがまとまってるページを訪れて、提唱者さんの書き込みなんかを見てると①で先日思ったような内容が書かれていた。

『いつか叶うと言う設定でいる限り、

いつまで経っても、叶っている今、今この瞬間叶っている、を実現できないのと同じ』

だから今その願いを叶える、というかもう叶っていますよ。ただ受け入れるだけです。

うーん、ここら辺がうまく書けないけど、そのスレッドの内容を要約した訳ではなくて、

あぁ、やっぱり今ここで叶っていると言うのが(思うのが)正しいのか〜と後付けされたように感じた。

 

むかーし、このブログでも書いたかもしれないが、(酔っ払いの記憶があるかないかみたいな話だったかな?)今、過去を思い出していたら、今この瞬間を生きていなくて、もったいないみたいな話。やっぱり今しかないんだな、と感じた。

 

③この考えを後押しするかのようなシンクロニシティ-本編

その次の日かな。家族から荷物が送られてきてその中に武田邦彦先生の本が入っていた。武田邦彦の科学的人生論。武田先生は常に科学的データに沿ってお話しされるし、化学や物理といった理系の話だけでなく、文学や地政学、芸術など色んな分野に精通してらっしゃるのでどのお話も興味深く、大好きだがこの本は読んだことがなかったので少し読ませてもらった。

 

そうすると、もう冒頭から私がここ数日考えていたことと同じような内容が書かれていた。(内容の意味を取り間違えていたら大変申し訳ないのですが、私は同じだと感じ驚きました。)武田先生の本なので本書はスピリチュアル的な話が盛り込まれた本ではないが、物の捉え方、考え方という精神的な部分がシンクロしていると感じた。

それは、第一章の一番最初に書かれていたことだ。本の内容をそのまま書くわけにもいかないので一部だけ引用させていただくが、願い事がある場合は第一段階はこうすると書かれていた。

(1)願い事を叶えたいと思うこと。

(2)願い事は叶うと信じること。

 

この二つは連動しているので、願い事が叶うと信じることができれば願い事を叶えたいと思うことができるとも書かれていた。要は願い事が叶わなかった時、ショックを受けるのが怖くて心底から叶えたいと思えなくなっている人がいる、ということだった。この話題について武田先生はこう仰るらしい。

「願いごとは叶うと思ってください。叶うかどうかは別にして。」

多く願いは誰々と結婚したい、あの会社に入りたい等、相手の決定次第(=向こうから来るもの)なのでどうにもならないと思うらしい。

そうして、願いを叶えたいと思い、願いが叶うと信じ続けて数年を経ると、次の段階に進む。

(3)向こうから来るものは拒まない

たとえどんな結果でも向こうから来るものを受け入れるという勇気が、(1)(2)を体験し、実行した結果(3)のフェーズが与えられるという。

タイミングは自分で決めることはできないが、その時にはそうなるだろう。

 ー元気になるときには元気になるだろう。

 ー小説家になるときには小説家になっているだろう。

 ー恋人ができるときには恋人ができるだろう。

 

と考えられるようになる。(これはいつか未来にそうなるだろうと思いを馳せるのとは違うのだろうな、とその後の本の内容を読んで感じた。今この瞬間に通じるものがあるな、と感じた。なぜならその日1日生きることが大切であり幸せであることを色んな方面から書いてあったからだ。)

願いを叶えたいと思い、願いが叶うと信じ、そうしているうちに向こうから来るものと、自分の求める物の差が見えてくる。そうすると次のことがわかるようになるという。

 

(4)願いとは自分ができること

(5)願いとは将来ではなく今日のこと

 

自分の願いを信じていない人は、願いが相手との関係性で決まると錯覚している。

(つまり相手に選んでもらえるか、どうかということなのかな?)

でも願いを最後まで信じていると、願いとは自分のことなのだ、自分ができることが願いなのだということがわかってくる。

例えば、kadokawaで出版したい、kadokawaに選んでもらいたい、ではなくてkadokawaから出版しませんかと声がかかるくらい自分の執筆力や認知度を上げたいということなのだろうか。

この解釈が合っているかがちょっと不安。

そしてさらに「こうなりたい」と思う願いは将来のことではなく、今日のことだということもわかるのだ。

(ここで私は驚いた、つい最近私が思ったことじゃないか!と)

「願い」は自分のことであり、それが実現するのは将来ではなく、今日一日の自分の行動なのだ。そのことに気づいた瞬間、私の願いは実現した。弱かった私の体も丈夫になり、何となく調子の悪かった人生も幸福なものに変わっていった。

これが先生が信じる、願いを叶えることができる方法(1−5を順番に自分のものにしていくこと)だという。

私は自分が今どの段階なのか、1−5までを理解しているつもりでも実際には(3)で止まっているかもしれないし、ここまで書いていても実際は願いが叶わないのが怖くて(1)(2)が実践できていないのかもしれない。現実的な実感としては冒頭書いたように、半ばどうでも良くなった願い(つまり叶わなくても何らショックを受けない願い)は叶っているような気もする。

この一節は最後に以下の言葉の引用で締めくくられている。

「事の成る成らぬは天に任し、自分はひとえにその日その日の務めを全うすれば足る」(新渡戸稲造

確かに、昔から今あることに全力で取り組む、今目の前のことを一生懸命していたらいいんだよ、と教えられてきたような気もする。

そうとはわかっていながら、「今」に集中する時間よりも

過去に起きたあれやそれやを思い出し、悔やみ(もちろん思い出して幸せを感じることもあるが)、誰それの心情を勝手に推察して落ち込み、未来の心配をしたり、やることリストをたてたり、「今」以外に焦点を当てている時間が多かったかもしれない。

 

だからやはり「今」目の前にあることに集中して、生きて。ただ願望を持ってはいけない、というわけではなくて、願いは叶うと信じていてよくて(というかじつは今もう叶っている)。

という状態で生きていたらいいのかなぁと思った。

因みに、今目の前にあることに集中する、というのは何も勉強や家事、仕事といった一見大変そうに聞こえる行動だけではなく、読書、呼吸、お絵かき、演奏、など、やっていることは何でもよくてただ本当に今この瞬間に存在していることを感じたらいいのかなと思っている。存在してるだけで価値あるもんね。

 

そうしてただただ散歩している状態が幸せだと感じて(あったかい春のかぜとたいようの光を感じて、時間に追われることもなく)散歩していた。

長く書きすぎて疲れたので一旦STOP