toimichi’s diary

思考の整理、のち、趣味

現実に惑わされない。体調であったとしても

 

現実は無視、不足は存在しないのだから。

不足と思えることは幻想、真実ではない、真実は愛であったかい世界なんだから。

 

などと言っていても、体調不良で体感的にずーんと怠く重かったり、キリキリと痛んだり、起きてられなかったりしたら、この現実は現に今体感しているのだから、幻想などと言って無視することはなできないだろー!

 

と、思いませんか。

 

でも、やっぱりそれでも真実の方を見続けるしかない、と思い実験中です。

 

昨晩から喉が痛く、立直りかけた体調がまた悪化してきた、、と感じておりました。

今朝も朝起きると怠く、せっかくの土曜日なのに、、(;_;)と、悲しさとよくならない自分の体調にイライラ怒りまで湧いてきました。

 

でも、家族が

「波があるんじゃない?良くなったり悪くなったり、でもトータルで見たらだんだん上がってきてるように見えるよ。株価のチャートみたいな感じで。本人が事実として感じてる部分はわからないけど。」

のように言った時、

一瞬、だから私がしんどいって感じてるんだからしんどいんだよー!貴方の中の私がどうであれ!と、エゴが騒ぎましたが

あれ?わざわざしんどい私認定をしているのは誰だ?わざわざ体の不調な部分にフォーカスを当てて、

ほら、喉が痛いじゃないか、しんどいじゃん!

ほら、スッキリ起きれなかった、起こされたからしんどいじゃん!

ほら、だからまだ体調不調なんだよ!私はしんどいんだー!

と騒いでるのは誰?その思考に引っ張られていつまでしんどい私でいるつもりなんだろう。

と思いました。

 

割と元気になりかけている時は「元気な私」に焦点を当てて、そのまま別のことをしたりして忘れているのに、ちょっと不調具合が大きいと途端に大きく騒ぎ出します。

 

いつも、不安な思考に同化しない、を心がけていたのに、体調はリアリティがありすぎてついつい引っ張られてしまいます。もちろん、現実的に取れる策(漢方飲んだり、お医者さん行ってみたり、楽な姿勢でいたり)は取りつつですが、

いかなる状態でもそう感じている現実はそれはそうとして、そう感じていたとしても、

真実の状態ではしんどいなんてありえないんだ、私は元気なんだ。を見続けようと思います。

 

現実は無視とか不足は存在しないとか、わざわざその現実を否定しなくてもいいし、本当にそうなのかな?って軽く疑う程度でいいんだとも思います。

強く否定しにかかるのは逆にその事実を認めに行っている気がしますので、ふーん、そう感じてるんだね〜辛いよね〜。ぐらいで抑えるのがいい塩梅かも。

 

一見不足に見えること、実は好きだったんじゃない?

不足というのは、充足の反対だ。

不足が好きなんてありえない、充足に包まれていたい!と思うのだが

ふと、外国人の人がバスでSuicaで簡単に支払いを済ませている様子を見て思った。

 

あーあ、

外国に行って、チケットの買い方とか分からなくて、右往左往する。そこで自分で調べたり、現地の人とやりとりしてなんとかチケットをゲットして移動する。これが醍醐味なのになぁ〜

と。

 

この醍醐味としている部分、合理性だけを考えれば不足と言われても仕方ないかもしれない。そんなのアプリに入金しておいてパッとかざすだけでよかったら楽だしストレスないし時間もかからないよ!と。

しかしこの件は私のような見方をすれば、醍醐味という旨味、充足とも取れるのである。

 

どこでもドアがあればなぁ〜すぐに移動できるのに、こんな長距離移動嫌だ、、と思うこともあるが、不足だと決めつけず、旅の醍醐味かもしれないな?という目線で見てもいいのかもしれない。

まぁ、体調が良くない時は醍醐味云々という余裕はないのだが、そういう時は周りの人が優しいとか自分第一に動けるとか美味しいもの気にせず食べれるとか、そういう不調の醍醐味を味わってみてもいいかもしれない。

 

面白いのは、

これが嫌だ〜→あれ、案外悪くないな、どっちでもいいかな

と思考の転換ができた時、自分にとって最善の道が開けることだ。1案が良かったけど、2案でも案外悪くないと思えたからどっちでもいいや〜と思うと受け入れたのに、自分が一番心地よい道に誘導されたりする。

 

醍醐味に変換やってみる価値はあるかもしれない。

弟の日記帳が可愛い

年末年始実家に帰り、過去の作品集の整理をしていた。

弟の日記帳(おそらく小学校の宿題であったみたい)を発見し、読んだところ、可愛い可愛い。

可愛さが溢れ出ていた。

 

日記の初めの一行はタイトルになっているようで、「○○に行ったよ!!」とか「つきゆび」とか簡潔に日記の内容が表されていた。

 

その後日記がスタートするが、自分用では無くて先生に見せる前提であるからか、

文章も説明がしっかりと混じっていて読みやすい。

わたしが自分用につけている日記だとしたら、

『誰々と何処どこに行って〇〇をして楽しかった!』と、何処の誰かも書かないし、〇〇の詳細も書かず、やったこと記録程度にしか書いてないと思う。

が、どういう関係性の誰と何をしたか。何をする際の詳細はどんなだったか。をデスマス調で書いているのがすごく健気で可愛いなと思った。

 

文章なんてもう誰かに添削されることもないし、心の赴くままに書いてしまえ〜、他者目線を意識するなんてストレスじゃあ〜

と思っていたが、

もしかしたら他者目線を意識して書いてみたらかえって自分が満足する文章が書けるかもしれない。

などと思った。

 

 

また、小学生の日記帳は縦書きのノートだったのでそれもまた可愛い。縦書きの少し小さめ(B6?)のノート。

小学生用のでいいから私も縦書きで書いてみようかな。あの頃の、毎日が新鮮で楽しくて生き生きとしていた感じを取り戻したい。

生活形態がそもそも違うから小学生と今とじゃ感じ方が違うのかな、と思っていたが

今の社会人的精神で小学生と同じ生活をしても最初こそ楽しいけど結局毎日似たようなことやってるな、、と思ってしまう気がする。

そうじゃ無くて今日は何かとっても楽しいことが起こる、もう今それを体感してるんだっ!

というわくわくした心持ちで生きることが大切なのではないだろうか。

 

 

現実に決定権を渡さない

おみくじとか占いあるあるかと思いますが、

書いてある未来予測って幸運なら喜んで受け入れるけど、そうでもないならなんだか暗い気持ちになりますよね。

 

わりと幸運な結果を引く方でしたが、そうでもない記事を見た時に嫌ーな気持ちになりました。

でもね、そこで私がなにを選ぶかが重要だと思うんですよ。なにを選んでなにを感じるか。

一旦嫌な気分になってしまったのはそれはそうとして、一種の反応ですので仕方ないとして流します。

 

その後じゃあ今後はこのおみくじ通りの結果の人生を歩むんだショボーンと受け入れずに、そんなものはランダムで書かれているもので、(悪い結果だとしてもそうならないように真摯に生きろと書かれているとは思いますが)

でも私はそれを選択しない。

私は常に幸せを感じることを選択する。

私の幸せの決定権は私にある。

と強く決断したらいいんじゃないかとね。

 

現実に一喜一憂することに疲れたので、常に安定していたくて。どちらかと言うと常に喜びを体験したくて。

 

限界まで頑張っても無理だったら初めて人を頼っていいのだと思い込んでいた

人に頼ることは

人に迷惑をかけることになると思っていた

ので、ギリギリまで頼らないし、頼らないぞと思っていた。

 

自分のHPが1になってしまって

別の子を犠牲にして、1ターンで元気のかたまりを使って回復させる、

ような状況になってはじめて人を頼れる、頼ることを自分に許可していた気がした。

 

逆に言うとその限界ラインまではどうしても人に頼るということを許可できていなかった。

いつも私の周りには私を助けてくれる人がいるので、どれだけ苦しいと思えた境地でも、誰かが助けてくれた。それはそれはとても有難いことで、本当に感謝しているのだけれど、

その助けてと助けを求めるのを自分にGO出すのは、ちょっと苦しいだけじゃ無くて、本当に苦しくてこれ以上先に進んだら、かえって別のことで迷惑をかけるぞ!という心境に陥った時であった。

 

なぜか私はそんなふうに考えて自分に縛りを与えていたようだった。

 

これが他人事なら、

いいじゃん、嫌なことはやらなきゃいいんだよ、早めに人を頼ってもいいじゃん、迷惑だって思われないし、迷惑かけてもいいんだよ、全部自分なんだよって

軽く捉えられるのに

自分のエゴに縛られていると

まだ耐えろ、本当に回復不能手前に来るまでは耐えるんだ

という制限の中でしか動けなかった。

 

こう言う思い込みって気づけた時点で手放せている、とよく聞くので、もう手放せたことにしよう。

決別しようと思います。もっと人に甘えてもいい、世界は優しい、なぜなら私が私に優しくするからだ。

 

私を守ろうとしてくれてありがとう、でももうこの観念はいらないし、苦しくなった記憶も削除します。

大切にしてあげられなくてごめんなさい、許してください。本当に愛しています。

 

社会から認められないと思っている自分を愛せない自分でもOKを出す

このままだと社会一般的に普通だとされていることができなくて、自分はみんなから(特に身近な人から)怠惰だと思われてそのうち愛想を尽かされるかもしれない。そんなのは怖い、そんな自分じゃ嫌だ、社会から愛されない自分なんて認められない。

と暗い気持ちに包まれていたが、例えそんな自分を愛せない自分でもOKと思うことにした。

 

それでもOKと思うと、不思議とそれ以上こんな自分なんて、、と言うくらい気持ちループが終わった。

もうそれでもOKを出されてしまったのだからエゴの騒ぎようがない感じ。

 

社会から認められないとか、

一般的に普通だとされていることとか、そう言った概念的な思いも全てエゴが考えだしたことで、本当にそうかどうかはわからない。

もし今、縄文時代だったら、江戸時代だったら、50年後、100年賀の未来だったら、火星や冥王星の住人だったら、

一般的にこうであることのエゴが思い描く概念も違ったものかもしれない。

だからどんなに怖くてもそれは勝手にエゴが作り出した恐怖で、それに取り合わなくてもいいか、と思うようにもしていた。

そう思うようにしても、囚われてしまうときは囚われてしまうようで。

特に、今に集中していなくて、いつの間にかポーッと思考してしまっているとそう言った不安に飲み込まれてしまうようだ。

(逆に微塵切りに全集中している時間は幸せを感じれる)

 

そう言うときは、そう言う自分でもOKを出す。

怖い、そう言う自分が受け入れられない、愛せない、社会から愛されない自分なんて認められない自分でもいっか、と肯定する。

 

そうすると段々に本当に、じゃあそれでいっか。と思えてきた。

エゴが心配していたことが現実化しても別にいっか。

そう思っていると不思議とさっきまでの焦燥感というかくらい何かに飲み込まれていく気持ちが消えてなくなった。

だんだんと褪せていくというよりかは、幻想だったんだと気づいて一瞬にして無くなる感じ。

 

どんな自分でもOK。

肯定してあげる。

肯定できない自分でもOKと肯定する。

ワセリンに期待

ワセリンとは薬局で手に入る白色ワセリンのことである。

 

このワセリン、存在こそ知っていたものの、使ったことがなかったが、今回半年近く治らない(むしろ掻いてしまって悪化している)手の傷に塗ってみると、肌の違和感もなく、乾燥しないので痒みもなく、久しぶりに手の不快感を忘れている瞬間を生きれたので、今後ともワセリンには期待していきたい。

 

何かの傷で悩んでいる人は、ワセリンでカバーして自己治癒力を最大限に引き出すのをおすすめする。

 

ワセリンを塗ってみようと思ったきっかけは、「化粧品を使わない!水とワセリンで美肌になる」という本を

お顔のスキンケア方法でおすすめされたことだ。

私は化粧水、乳液、マッサージ、、という一般的であろうスキンケアをしているタイプだったが、化粧水は浸透しないしむしろ乾燥してよくないよと再三言われ、この本を読んでみたらとおススメされた本だ。

 

本の内容を簡単に要約すると、以下のような感じ。

 

・人間の肌には本来自己修復能力がある。

・化粧水や乳液などは余計な化学物質が含まれていてかえって肌に悪い

・化粧水は肌の奥まで浸透するわけではないので蒸発する際に余計に肌を乾燥させてしまう。

・ワセリンは肌に薄く張り付いて皮脂の役割を果たすため、肌に蓋をして水分蒸発を防いだり、雑菌を侵入させにくくさせたりする。

 

なるほどなぁと思いながら、徐々に過剰なスキンケアはやめていっていたが、ワセリンで保湿をするところまでは実際に行っていなかった。

だが、手の傷が、お風呂上がりに余計に乾燥して痒くなって悪化することが気になり、試しに手から導入してみたところ、乾燥は気にならなくなった。あとはどのくらいの速さで治ってくれるか、見どころだ。

 

 

こうやって、不快な感情を忘れている時って実は凄く快だし、ありがたいことだ。ありがとう本おすすめしてくれた人!